理想の法話は水戸黄門か遠山の金さん
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法要の際には必ず法話をするようにしています。
日頃、お寺に来慣れていない参詣者の集中力が保つ程度で、かつ法要全体で2時間程度に収まるようにするため、法話時間は15分から30分程度。
意識していることは雑談や個人の思い出話で終わらないようにすることと、抽象的な一般論ばかりにならないようにすることです。
参考になるのは落語。
もともと京都にある誓願寺の安楽庵策伝が法話の際に人々が飽きないように始めたと言われるように、法話との相性がいいです。
私も話の構成は概ね「マクラ」「本題」「オチ(サゲ)」としています。
観客や参詣者が興味を持ったり笑ってくれるためには、落語家やお坊さんが話している内容について、共通の理解が無いといけません。
古典落語なら江戸の文化、法話なら経典やお寺にまつわる用語について、概ねの意味が分かっているということです。
一昔前であれば、年間行事で度々お寺にお参りする習慣がある人が多かったため、こうした用語も聞き慣れた人が沢山いて、語呂合わせやダジャレにも笑いが起きました。
例えば、ウチの可愛い可愛い嫁はお寺とは関係ない在家(一般家庭)出身ですが、私の法話の練習に度々付き合ってくれているうちに「涅槃」や「末法」の意味をそれとなく理解し、日常のやり取りで使うほどになりました。
また、用語を知らないと初見の話は聞き手が疲れます。
ただでさえ来ることが少なくて居心地が悪いであろうお寺で、次はどんな用語が出てくるのか、どんな話の展開になるのか、と気にしていては、耳から耳へ抜けてしまい、頭には入ってこないでしょう。
そういった意味で理想の法話は「水戸黄門」か「遠山の金さん」のような話だと思います。
どういうことかと言えば、みんな番組スタートから40分頃になると「そろそろ印籠(桜吹雪)が出てくるぞ」と理解していて、その後の結末も概ね分かっているのに、楽しく見る(聞く)内容だ、ということです。
法話も同じ用語、同じ内容、同じ結末でありながら、みんなが聞き飽きた、と思うことなく「そろそろあの話が出てくるぞ」と思って楽しみに待つようになれば、用語も内容もみんなの身に染みるくらいになっていると思われます。
しばしば「仏法は毛穴から入る」と言われます。
これには二つの意味があると思います。
一つは、聞いている時によく意味が理解できなくても、仏法の場に繰り返し繰り返し足を運ぶことによって、思わず知らず仏法の意味するところが身体に染み入っているということです。
別の仏教用語でいう「薫習」がこれに近いと思います。
仏法の場に度々足を運ぶうちにお香の香りが衣服に染みつくように、仏法の意味や思いや願いが伝わるということです。
もう一つは、仏法を耳から聞いて理解する、ということが私たちはできない、ということです。
私たちは耳から聞いて「知識」として理解しても、それを「生き方」に反映することはありません。
「知識」として受け取る限りは、狭い自分の枠の中だけで理解しようとするので、仏法の本意を受け取れないからです。
そのため、自分の生き方という狭い枠で理解できる範囲だけで、仏法を活かそうとします。
そうではなくて、仏法は私自身を有限にしている壁を壊してくれて、仏法の中に私が生きるようになるのです。
この姿が、耳から知識として受け取ろうとするのでなく、全身で自分の生き方と当てはめながら考えていく姿として、毛穴に例えられたのだと思います。
さて、コラムも書き終わったし、お酒でも飲むとしますか。
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