多重債務者が1級FPになるまでの記録2
パチスロとの出会い
夜勤バイトを始めると、最初は朝までバイトして、そのまま学校に行って、という生活をしていたが、次第にしんどくなっていった。
同時に、夜勤バイトには同年代の人も多く、自然と仲良くなり遊ぶようになった。
バイト仲間の多くは、パチスロをやっていた。
当時はいわゆる北斗世代と呼ばれる時代で、初代北斗の拳が大人気の時代であった。
それまで私は、パチスロは一度だけ友人に誘われて千円だけやった事があった。千円があっという間に無くなり、何の面白味も感じなかった記憶があった。
バイト仲間の間で流行っていたのは、特に「主役は銭形」という機種で、大量獲得ストック機として「吉宗」と並んで人気機種であった。
ある日、バイト仲間に誘われて、この「主役は銭形」を打ちに行く事になった。
「銭形は甘いから、毎月10万円くらいは勝ってるよ」
そんな事をよく仲間は言っていた。
私は勝てるとは思っていなかったが、みんながやっているのでとりあえずついていく事にした。
「主役は銭形」を並んで打っていると、友人は一回、二回と当たりを引いていき、あっという間にドル箱を積んでいた。
私はというと、どんどんとお金が吸い込まれ、たまに当たってもすぐに飲まれていった。
気がつけば4万円が無くなっていた。
私はとっくに帰りたかったが、隣で友人が調子よく打っているものだから、自分だけ辞めるのも気が引けて、ほとんど何も考えずにお金を突っ込んだ。
「おれ今日夜勤だから、この台打ちなよ。たぶん6だから、まだ出るよ」
友人もきっと私に勝たせたかったのだろう。気を利かせて私に台を譲り、先に帰っていった。
「6?よく分からないけど打てばいいのか?」
そう思って、1人で打ち続けた。
追加で1万円使ったところで、もうやめて帰ろうと思った。
1日で使った金額は5万円。バイトの月収のほぼすべてを1日で使ってしまった事実が重くのしかかり、絶望的な気持ちで家に帰った。
同時に、「悔しさ」という感情もあった。
この悔しさが、次第に「取り返したい」という気持ちに変わっていったのだと今では思う。
「取り返したい」この気持ちを持つ人間は、基本的にギャンブルをやってはいけない。ギャンブルに向いていない人間の思考である。
私はギャンブルに向いていなかった。
大学1年~2年
私はパチスロに通うようになっていた。
基本的にはバイト仲間と一緒に、夜勤明けで打ちに行っていた。
仲間はみんなパチスロ好きであったが、その中でも依存症のように打ち続ける者もいれば、付き合いでしか打たない者もいた。
私は時間さえあれば打ちに行くようになっていた。
ただし、この頃はまだ、自分でお金のコントロールはできていた。
大学生活では、飲み会もかなり多く、その出費もかさんでいたので、毎月のバイト代は10万円くらいであったが、すべてパチスロにつぎこむようなことはあまりしなかった。すべて遊ぶお金に消えてはいたが・・・。
私は音楽にもずっとハマっていてCDもたくさん買っていたし、洋服も好きだった。ちょっと凝ったバイクに乗ったりもしていた。パチスロで勝つこともあったので、臨時収入が入れば物欲にまかせていろいろ買っていた。
大学2年生くらいになると、ものを買う時はカードを使うようになっていた。
バイト代は飲み会とパチスロで消えることが増えてきたので、洋服や友達と行く旅行などは、カードを使って分割で乗り切る、という生活スタイルに変わっていった。
留年を経験
大学3年生になると、かなり授業が忙しくなっていた。
私は夜勤バイトを続けていて、授業がある日はそのまま学校に行こうと思って電車にのったが、どうしても途中で降りてパチスロを打ちにいってしまう生活が続いていた。
当然、かなり単位はギリギリの状態ではあったが、それでも絶対におさえなくてはいけない授業はおさえていて、なんとかなるという自信はあった。
しかし、大学3年生から4年生に進学することができなかった。
理由はただひとつ、必修単位をひとつだけ落としたから。
ぬかった・・・と思った。
就職活動もスタートしていて、この時は売り手市場だったこともあり、順調に選考も進んでいる中での出来事で、けっこうパニックになった覚えがある。
とりあえず、父親に言うしかないので、正直に言うと、当然怒られた。
「馬鹿が。就職しやすいチャンスの年だったのに、お前はそれも逃したな」
そんな事を言われながらも、もう1年分の学費は出してくれることになった。
そんなこんなで、ほとんどひとつの単位を取るためだけの1年間を送る事が決定した。
このあたりから、カードの支払いはリボ払いを使い始めていた。
欲しいものはリボ払いで買い、毎月少ない返済額で済むので、バイト代はほとんど飲み会とパチスロに使う事ができていた。
このあたりから、いわゆるクズっぽい行動が増えていたと思う。
例えば、「車の免許が欲しい。教習所に通いたい。」といって、教習所代を母親に出してもらったが、その支払いのお金でパチスロを打ちに行ったりしていた。
この時は、ほんとに残り千円まで飲まれた。
「やばい・・・どうしよう・・・」
もうほとんど思考停止状態で使った最後の千円で当たり、そこからすべて取り返した。
そういった体験が、また自分をパチスロにのめり込ませていった。
また、パチスロをめぐる事故もあった。
パチスロ打ちたくて事故る
ある日パチスロを打っていて、お金が尽きた。
「もう少し打てば出る・・・!」
そう思って、台をキープしたまま、急いで家までバイクでお金を取りに戻った。
そして、再び打つべくパチ屋へバイクで向かっている途中、自動車と正面衝突した。
事故の瞬間の記憶がなく、気が付けば救急車に運ばれようとしてた。
バイクは全壊。私は腕を複雑骨折。
この瞬間は本当に、心の底から自分が情けなくて涙が出た。もう辞めたいと本当に思って、この世のすべてのものに懺悔したい気分であった。
その後、1ヶ月の療養を経て、ギプスをはめたまま、私はまたパチスロを打っていた。
「もうこんな生活なんとかしたい。辞めたい。」
その気持ちを抱えながら足はホールへと吸い込まれていく。
結局、大学3年間で、夜勤バイトして、最低限学校に行き、それ以外はほとんどパチスロ、夜は飲み会、残っているのはリボ払いの支払い、という状況。しかも留年。
毎日音楽に明け暮れていた自分が、わずか3年でこんな状況になるとは思ってもいなかった。
毎日、負けては「もう辞めよう・・・」と誓い、また打ちたくなって打つ、の繰り返し。
しかもパチスロ自体、時代の終焉を迎えようとしていた。4号機が終わり、次第に出玉の少ない5号機に移行していく時代で、周りの人も次々にパチスロを辞めていく。自分はというと「こんなつまらなくて勝てないスロットはもうやる価値ないね」と言いながら、打ちたくてうずうずしている。
私は留年をきっかけに生活を変えようと、夜勤バイトを辞めることにした。
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?