書評:「目撃証言」(エリザベス・ロフタス)はすごい本

体験したことを人に話す。私たちはその話を聞くとき、それは事実なのだと、疑いを持ちません。

ところが、本人が事実と信じている記憶でさえ、事実でないとしたら...。

人の記憶の脆さ、そしてそれを裁判の証拠として用いる危うさを教えてくれる、とても素晴らしい本です。

著者は?

著者のエリザベス・ロフタス教授は記憶に関する認知心理学の専門家です。人の記憶がいかにたやすく変わり、かつ、変わることに気づいていないかに関する知見を、裁判での目撃者証言の信憑性評価に繋げています。

人の心は繊細で、要因が統制された心理学的実験の成果を実社会の現象の説明にまで使えるか否かという点で大きな問題をはらんでいるため、多くの心理学者は研究成果を実社会へ生かすことにためらうのですが、ロフタス教授は積極的に生かそうとしています。

経験は書き換えられる

この本には教授が関わった8つの裁判記録が収められています。どれも物証に乏しくて、目撃者証言が決め手になるものばかりです。

多くの人は、被害者や他の目撃者が自信を持って「この人が犯人です!」と識別したら、識別された人物が犯人で間違いないと考えるでしょう。まして、2人以上の目撃者が同一人物を指さしたら、動かしがたいインパクトがあります。ビデオカメラのように、人の記憶は事実を記録し、記録した事実はそのままの形で保たれ、一時は思い出せないことはあるけれど、不意に思い出すことがある、これが多くの人達が記憶に抱くイメージでしょう。

しかしロフタス教授は、記憶は事実の記録ではなく、もっとダイナミックに姿を変え、ときに誤った判断に繋がると主張します。たとえば、事件を目撃した後、目撃者は警察官から6名の写真を見せられます。そのときは曖昧だった記憶は、写真の中の一人を選び出すことで鮮明に蘇ります。そして現実にその人物に会ったときには確信に変わります。本当は、選んだ一人は事件とまったく無関係であったとしてもです。

この本を読んでいると、被害者になったり、事件を目撃したりといった強いストレス下で蓄えられた記憶は、警察官からの有形無形の圧力を感じたり、警察官が無意識的にでも誘導を行なったり、時間が経過したり、新聞報道などの事後情報に晒されたりすると、あっさりと書き換えられてしまうことがわかります。

推測を行なうことよって記憶がどう変わるのか、変わった後にはどう固定されるのかについて、本文から抜粋します。

...推測は特に危険である。というのは証人が確信をもてない場合には、推測がその出来事に関する最初の骨格となる描写の隙間を埋めてしまい、基盤となる記憶を実質的に変化させてしまうからである。のちに記憶をたどるときに、証人は記憶に隠されていた部分として、最初は推測にすぎなかったものを実際の記憶であるかのように誤って再生するかもしれないのである。さらにはじめの推測が比較的低い自信とともに表明されていても、あとで推測したことを実際の記憶として誤りを犯すような場合には、その自信の程度が強まるのである。証人は、もはや当初の事実をそのあとの推測から区別できなくなり、心ではその作り物を真実として理解してしまう。事実は推測に塗り固められてしまうのである。


記憶を大きな堤に積み上げられ、組み合わされたレンガ(いろいろな詳細、事実、観察、そして知覚)の蓄積であると想像してみるとよい。推測はそれらのレンガにピシャッと塗り付けられたセメントであり、レンガを堅く、密着した構造に仕上げるのである。最初、推測は液状で可塑性があるが、時間の経過とともに固められ、堅くなり、変化しにくくなる。そして記憶が呼び起こされるたびに、推測されたことが生き生きとして、しかも色彩にあふれ、いっそう現実味を帯び、ありのままのものであるとの自信を証人は深めるようになる。実際の犯罪における識別の手続きでは、警察や検察官は目撃者に完全でしかも正確であるようにと、微妙ではあるが重い圧力をしばしばかけてくる。そのような圧力にさらされて推測がすばやく凝固される。目撃者も自分自身に圧力をかける。不確実なものや混乱したものを避けようとするのが心の一般的特徴である。一度でもそれに応えてしまうと、それに縛られ、時間の経過とともに自信を持つようになる。事実として述べた供述を再考したり、それに疑問をさしはさむことは、名誉や高潔さに反すると感じられるのかもしれない。

記憶は見聞きしたことの貯蔵庫ではありません。人間の記憶メカニズムは、元々持っている記憶に合致した刺激は積極的に取り込み、合致しない刺激はふるい落とします。記憶してからも後々の刺激によって形を変え、さらに思い出すときには欠落している情報を推理し繕う、という機能を持ちます。このような仕組みによって多様な刺激を効率的に蓄え、瞬時に再生し判断に生かすことができる。生きる上で極めて合理的な知的作業が人間の記憶メカニズムです。

ところが、このメカニズムはディテールの保持が極めて不得意です。思い出せないならまだ良くて、本人にも気づかないように欠落しているディテールを都合良く補って思い出してしまいます。日常生活では合理的な記憶メカニズムは、裁判証言としては致命的な欠陥になります。ゆえに、目撃証言の信憑性の検討は十分に慎重であらねばなりません。

ロフタス教授は「目撃者識別に内在する明白な危険性は別にしても、すべての目撃者識別を排除するのは悲劇的な誤りとなるであろう。なぜなら強姦事件のように、目撃者識別だけが利用できる唯一の証拠であるということも多々あるし、目撃証言が正しいこともしばしばある。」と述べています。重要なことは、目撃証言が変容しうる事実を認識し、証言の信憑性を正確に判断し、さらに、信憑性が低いと判断したのなら、意志決定の根拠として採用しない勇気を持つことでしょう。

書き換えられた記憶の悲劇

被害者において加害者の記憶の書き換えが行なわれた場合は悲劇が起きます。

以下は、本書で取り上げられている事例の一つです。

ある母親が、2人の子どもの目の前で強姦されました。母親は法廷で一人の男を確信を持って犯人と識別しました。犯人とされた容疑者は無実を主張しましたが、陪審員は最終的に彼を有罪と判断し、50年の刑が確定しました。

その2ヶ月後、真犯人が逮捕されました。その人物は、犯人でなければ知り得ない情報を告白しました。その様子はビデオに撮影されました。

本文には、真犯人が告白をしているビデオを被害者が初めて観たときの様子を、当時の検察官だった人物が著者に説明する記述があります。

彼(※当時の検察官)は、サリー・ブラックウェル(※被害者)と彼女の二人の子供がシモニス(※真犯人)の告白ビデオを見るために地方検察局に来たときに起こったことを説明し始めた。

「このとき彼らはシモニスが告白したのを知りませんでした」と彼は言った。「彼らを小部屋に通して明かりを消し、ビデオをつけました。数分後、10代の二人の子供は母親を見ました。二人の顔に窺われるショックの気配から、二人がビデオの人物を認めたことは明らかでした。しかし母親は子供たちを見ようとはしませんでした。彼女はビデオの男を見続けて、それからゆっくりと頭を前後に振り始めました。「ノー」と彼女は言いました。「ノー、ノー、ノー、ノー、ノー」と、彼女の声はついにはビデオの音声よりも大きくなっていったのです。」「シモニスは強姦犯だけが知りえる詳細、検察局以外の誰もが知りえない詳細を告白しました」とその法律家は言った。「それでも彼女は誤った識別をしたという事実を受け入れようとはしませんでした。フォン・ウィリアムズ(※被害者が識別し誤認逮捕された人物)以外の人物がこの犯罪を犯したことを認められなかったのです。」自分の記憶にあまりにも愛着を持ちすぎて、明らかな矛盾や食い違いが生じてもなお心を変えようとしない、現実の生きた証拠がここにある。

被害に遭った直後には曖昧だった犯人の記憶は、被害者の中では既に確信に変わっていました。おそらく無実を訴える容疑者に怒り、有罪を望んだことでしょう。しかし、真犯人の登場で、自分が無実の人物を犯人に仕立て上げていたことが明らかになってしまいました。被害者の中で育まれた怒りと自信は打ち砕かれ、一転して自身が責めを受けるべき立場になってしまいました。

彼女は、子ども達の前で強姦されるという理不尽に加え、有形無形の圧力による記憶の変容のおかげで、冤罪の片腕を担ったという強烈な負い目まで背負わされる羽目になってしまいました。

これを不条理と言わずして、なんと言おう。

正義の圧力

多忙なロフタス教授が裁判に関わる理由の一つは、冤罪により人生の少なくない部分が何の理由もなく破壊されることを防ぎたい、という正義感からだと思います。確証がないうちは、容疑者の無罪を推定する、という大原則を守る重要性を説きます。

しかし、犯罪の無惨な様子や、被害者の無念を耳にすると、犯罪者は絶対に許さないという別の正義感も強くなります。この正義感は、容疑者の推定有罪への圧力となり、誰かを有罪にすることでカタルシスを得るという冤罪の構造へ人を強く引き寄せます。しかし、ロフタス教授はこう言います。

...非難の指さしによって打ち砕かれたそれら無実の人々の人生を、私たちはたまにわずかだけ思い出すにすぎない。犠牲になったこれらの人々は、過失、つまり避けられない不利益であったと見なされてしまう。「どんな制度でも完全ではない」と人は言う。「間違いは起こるものだ」と。私はことばもなく彼らを見つめる。私は怒りを込めてたずねたい。それがあなたの人生であったなら、それを誤りと呼ぶことで、はたして満足できるのだろうかと。

冤罪を防ぐ正義と犯罪者を処する正義と、いずれの正義感も正常な人間には内在しているだろうし、内在すべき欲求だと思います。では、どう折り合いを付ければよいのでしょう。

おそらく、犯罪者を処する正義への欲求は、裁判で提示される証拠を精査し、公正に犯人を識別しようとする情熱に変換させなければならないのでしょう。この変換により、2つの正義は一体となって、複雑な思考作業を忍耐強く継続し、出来うる限りの確信を持って有罪と無罪を判断する源になるのではないでしょうか。

裁判員制度により僕自身が裁判員になったとしたら、想像を絶するプレッシャーが襲ってくるでしょう。人が人を裁くことに関与しなければならないプレッシャーに耐える上で、この正義への渇望は、きっと支えになってくれると信じています。

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阿楠
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