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3行なら「日記」を書けるかもしれない
「日記」が苦手です。
学生時代、夏休みの宿題で、最も私を苦しめたものこそ「日記」でした。
そもそも「日記」って、いったい何を書けばいいのか。
さほど代り映えのしない私の日々などを、何故先生にわざわざ報告しなければならないのか。
そうは言っても宿題である以上、やらないわけにはいかないので、とりあえず何かしら書くことは書く。無理やり。心から嫌々で。
当時の私は、今でいう「業務日報」的な捉え方をしていたわけです。
なので、そんな嫌々ながらに書かれた日記を読まねばならない担任の先生には申し訳なかったと思いつつも、当時の私にとって「日記」は、
「強制的にやらされる辛い苦行」。
それ以外の何物でもなかったなんてことを、しみじみと思い出しています。
でも、書くことは基本的に嫌いではないのです。
同じ「書く」でも、読書感想文とかは大好き。スラスラと、とりとめとなく、結構な枚数(必要以上に)を書いて、自信満々で提出していました。
なぜ夏休みの宿題の「日記」が苦手だったのか。
それは、「日記」っていう、ふわっとしたやさしくソフトな可愛い雰囲気の単語でありながら実は、毎日続けて何かしらを書かなければならないという強力な持続力を必要とする上に、日々の何気ない事柄を観察し、それらの事象から何かしらの気づきを得、さらにはその気づきを「文字」に変換できる表現力をも必要とする、かなり難易度の高い作業だった、だからだと思います。
のほほんと日々を過ごしていた子供の頃の私には、そのハードルは高すぎて、「とりあえず何かを書いて出す」以上には頑張れなかったのですね。
だから、「日記」が嫌いでした。
でも、「書く」ことは好き。
そんな私が大人になってから、ブログやSNSなどに手を出せたのは、
夏休みの宿題ではないので、強制的に「毎日」続ける必要がないこと。
書きたい時に、書きたいことを書けること。
この自由なスタイルがあればこそ、私は書こうという気になるのだ。
と、都合よく解釈し、今だにほぼ自己満足で書いています。
なので、今日は「3行日記」を書こうと思っていたにも関わらず、やはり全然「日記」らしくないものになってしまいました。
やっぱり「日記」って私には難しいな~、などということに、ツラツラと思いふけった一日でした。
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