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わたしの「津軽」
別に、取り立てて太宰が好きというわけではないのですが。
ふと、太宰治の隠れた傑作、『津軽』の一節を思い出しました。
金木は私の生まれた町である。津軽平野のほぼ中央に位置し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町ということになっているようである。
わたしが育った町は金木町ではありません。
あんまり個人情報は晒したくないのですが、ありていに言ってしまえば、太宰が中学時代を過ごしたとされる青森市内です。
青森市は県庁所在地。日本海沿岸を北上する国道7号線と、東北本線とほぼ並行する国道4号線が交わる地点にあって、しがない北国の地方都市とはいえ、そこそこの規模に発展しています。
しかし、例えば、弘前のように文化や歴史を有する古都ではなく、かと言って下北や津軽半島の村々のように田舎の風情を残しているわけでもない。中途半端に都会ふうを気取っていて、子どもの頃からなんだか魅力の薄い町だと思っていました。地元を愛してやまない友人たちよ、ゴメンね。
太宰はこの『津軽』という作品の中で、かつての朋友や家の使用人たちと再会を果たします。いわゆる、五所川原市金木町にある斜陽館と呼ばれているバカでかい生家で暮らしていた頃に親しんだ人々ですね。その一人が乳母だった〝たけ〟という老婆でした。
太宰が金木町に帰郷したのは、折しも太平洋戦争の真っ只中。ある出版社から旅費をもらって津軽旅行を企てたとありますが、一説には困窮から一時的に故郷に身を寄せたのではという話もあって、本当のところは知る由もありません。兎にも角にも、その旅の道すがら、津軽半島の小泊村に住んでいたたけさんのもとを訪ねるのです。この時の模様が作品の終盤において瑞々しく描かれています。
たけさんとのくだりは、長いので引用はやめときますね。
ぜひ『津軽』そのものの原文を読んでみてください。すんごくいいから。
まぁ、かいつまんで言うと、たけさんの反応は太宰の意に反して素っ気なかったんですがね。しかし、たけさんは、30年近くにわたって離れ離れだった太宰のことを忘れてはおらず、深い愛情でもって逢うことを待ち侘びていたらしき描写が展開します。このパートはわりと紙幅が割かれていて感動的。作家の筆の巧緻さが際立っています。
さて、昨日、わたしも父と久方ぶりに再会いたしました。3週間ぶりだったかな。
1月から入院していた病院を退院し、いろいろな方々のご協力とご厚意で、ようやく見つかった介護施設への転院を控えていたからです。
父には、主治医の先生が「独り暮らしは許可できない」と仰っていることと、別の病院で「引き続き、治療をしなければならない」ということだけが伝えられていました。つまりは、自分の家に帰ることに執心していた父を、なんとか宥めすかしてでも説得して新しい施設へ連れて行く。それが、息子であるわたしに課せられたタスクでした。頼みの綱である叔父が、精神的ストレスから「兄貴にはもう会いたくない」と戦線離脱しちゃったこともあり、わたしがその気が重い役回りを引き受けなければなりませんでした。
「いいかい? これからオヤジは、わたしと一緒に別の病院へ向かいます。そこで専門医の先生に診察してもらって、これからの治療をどうするかを決めてもらいます。……ここまではわかるかな?」
もうね。徒に策を講じたって仕方がないと思ったんですよ。あるがまま、そのまんま、ストレートにこれからのことを話してみることにしたんです。
どうせウソも方便だと、お為ごかしなことを言ったって、後で辻褄が合わなくなったらわたしに対する不信感をつのらせるだけ。先週、わたしがすでに施設を見学していて、これから赴く病院のすぐそばにそのグループホームがあって、当面はそこで暮らしながら療養を続けるんだと説明しました。
家に帰ったって何もいいことはない。食事の心配がなく、暖かい部屋が用意されていて、デイサービスの時にように周囲には同世代の利用者さんたちがたくさんいる。施設の職員さんも皆さん優しい人ばっかりで、話し相手にだって不足はない。オヤジにとってこれほど恵まれた環境はないと思ったんだよ、と。
偽りのないわたし自身の思いを、素直にブツけてみました。
父の反応は、太宰が描いたたけさんのそれでした。
視線も合わせず、実に素っ気なく、「そうか」とだけ呟いたきり。
意外なことに、駄々をこねることなく、周囲を困らせて我を通すでもなく、ましてや暴れるでもなく。わたしが話す〝これから〟を素直に受け止めていました。
「病院の社会福祉士さんや、包括支援センターの担当者さんが、方々に手を尽くして探してくれたところなんだよ。まずは病院で検査して、そこに入所する。そして、しばらくの間、過ごして、家に一時帰宅するのは落ち着いてからにしようよ。また、わたしが付き添いにやって来るから」
移動の車中でも、父にはいろいろなことを話しかけました。父はわたしの問いにポツリポツリと反応します。
わたしはわたしで父の心の地雷を踏まないよう、一つひとつ言葉を選んで会話を重ねます。なぜなら沈黙がすべてを灰燼に帰してしまう恐怖が拭えなかったので。体調のこと、病院でのこと、母がいたく心配していたこと。少しでも心を開いてもらえるよう、焦らず、落ち着いて、話を続けました。
父がどういう気持ちでわたしの話を聞いていたのか、正直なところは分かりません。本来、この場にいて然るべきな叔父がいないことを父は気にかけていました。でも本人は理解しているでしょう。献身的に尽くしてきた叔父に対し、父は非情な仕打ちをしてしまった。そのことに対する慚愧の念を少なからず感じていたと思います。
いや、もしかしたら、もっと別の感情が湧いていたかもしれません。結果的に、それまで敵愾心を抱いていたわたしにすべてを委ねなければならない今の状況というものがあり、それができあがってしまった点に、ついに観念したのかもしれません。
車を運転されていた施設の寮長さんが「こうまで献身的にやってくださるご家族は珍しいくらいなんですよ。息子さんがいろいろと考えてくれているんだから大丈夫。当分の間は私たちと一緒に暮らしましょ?」とフォローしてくださいました。父は「こういうところにだけは知恵が回りやがるんだよ、この倅は。まぁいいや、後のことはこいつに任せるよ」と皮肉めいた一言を付け加えながらも同意してくれました。
『津軽』では、太宰がたけさんの行き先を訪ね歩くうちに、たけさんが村の運動会に出かけたことを知ります。やがてたけさんを見つけ、帽子を取って挨拶。傍らに腰を下ろし、ぼんやりと運動会を眺めます。そこで太宰は「胸中に一つも思うところがない」、「全く無憂無風の情態」という感情を吐露します。「平和とは、こんな気持ちのことを言うのであろうか。もし、そうなら、私はこのとき、生まれて初めて心の平和を体験したと言ってもよい」と語るのです。
一方、たけさんは、無言できちんと正座し、太宰と再会した喜びを隠そうとしている。子どもたちが走る様子をただただ見つめ、自分がどう振る舞おうか迷っている。そんなたけさんを間近に見て、太宰は不思議な安堵感に包まれるというシーンです。
もう一度、申し上げますが、父がどう思っていたのかは分かりません。父の仕草や表情からは、たけさんのように人前で取り乱すまい、自制心を保って真意を悟られまい、そういった僅かな感情の起伏や変化を拾い上げることは叶いませんでした。
でも、これは自分本位で都合の良い解釈かもしれませんが、父はわたしの言うことを、虚ろな目でありながらも、最後まで黙って聞いてくれていました。ちょっとムカつく余計な一言(前述した皮肉)もありましたが、後はお前に任せると言ってくれました。
わたしも太宰と同じように、これでもう安堵感に包まれてもいいのかな?
ひとまず一件落着と考えてもいいのかな?
父のことであれこれ思考を乱されなくて済むようになるのかな?
そもそも父がこれで満足してくれるのかな?
車で移動する間も、施設に到着してのちも、先生の診察を受けて受け容れの了承をいただいた後も、父は激高することなく、わたしたちが促すままに動いていました。さっそく利用者さんたちと一緒に食事を摂りながら、軽い談笑を楽しんでいて、あっという間にその場に馴染んでいるようなそぶりでした。
しばらくして、わたしが「大丈夫そうかい?」と念押しすると、「ここの人たちはみんないい人ばかりのようだ」と、この施設での暮らしに前向きな言葉さえ発していました。
かれこれ1時間半はいたでしょうか。びっくりするくらいすべてが順調に進み、施設を離れる頃には、まさしく無憂無風の情態というものを体験しました。
「それじゃあまた来るからね。元気で」「わかったよ。気をつけて帰れよ」
くだんの『津軽』は、太宰の以下の言葉でフィナーレを迎えます。
さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。
物語の締め方としては斬新で底抜けに明るいですよね。日本の敗戦を翌年に迎えるという不安だらけの中、太宰は持ち前のユーモアを交えて澱む空気を吹き飛ばそうとしたのかもしれません。
わたしは正直、そこまで心に余裕が持てないというか……まだまだ何かが起こるかもしれぬという不安に苛まれていますけれど。まぁ「元気で行こう。絶望するな」だけは、自分ごとに重ね合わせるまでもなく首肯できました。
ご両親やご兄弟との諍い、介護による気苦労や疲弊感、なかなか他人様には共感してもらえない問題を抱えていらっしゃる世の皆さんには、自らを信じて一生懸命に頑張っていればきっと道は拓けますよ、とお伝えしたいのです。
「元気で行こう。絶望するな」。
わたしもこの言葉で今日の投稿を締めさせていただくこととします。