『ラブライブ!』と「神話」

藤津亮太さん主催の「アニメレビュー勉強会」に提出したアニメ映画『ラブライブ!The School Idol Movie』のレビュー原稿です。こちらで公開させていただきます。

 不思議な感覚だった。
 『ラブライブ!The School Idol Movie』のストーリーを知ったとき、そして観ている歳中も、ずっと『映画 けいおん!』と比べていた。どちらも「音楽」を主題にして一世を風靡したテレビアニメの劇場版であるし、卒業=「解散」を前にした主人公たちのグループが海外に行き、帰ってきて「ラストライブ」を行い、自分たちなりの決着をつける――大まかに要約したストーリーだけ取り出せば、類似したものになってしまう。
 なのに、作品全体の感触は、全く違うのだ。この感触の違いは何だろう。
 考えているうちに、ひとつの言葉にたどり着いた。それは「神話」である。
 世界の神話、英雄伝説を収拾、分析してそこに普遍的な共通項を見いだしたとされるジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』は、『スター・ウォーズ』『マッドマックス』など、エンターテインメントに示唆を与えた本として有名だが、本書には英雄神話の構造として「出立→イニシエーション→帰還」というプロセスを経ることが書かれている。
 前半の異国の街で穂乃果が経験した出来事は、この「構造」に沿っているのだ。穂乃果は異国の街で仲間とはぐれ、迷える穂乃果に示唆を与える謎めいた「女性シンガー」との出逢いという「イニシエーション」を経て、仲間の元に帰還する。それは古典的な英雄譚にある「ゆきて帰りし物語」。このプロセスを前半で手際よくこなしてしまうのだ。唐突なように思える「この街、なんとなく秋葉原に似ている」という凛の台詞は、そこがもう「未知の場所」ではないことを表現している、と思える。
 だから、日本に、秋葉原に帰還した彼女たちμ'sはまさに「英雄」なのだ。「今の私たちなら、何だって出来る、どんな夢だって叶えられる!」という穂乃果の台詞の根拠は、そこにある。
 一方、『映画 けいおん!』で描かれているのは「日常」。劇場版においても、作中時間は卒業旅行から一時期を切り取ったという構造を崩さない。放課後ティータイムの面々がロンドンに行くのは「卒業旅行」であり、基本的にリアリズムの範疇に収まっているが、『ラブライブ!』はその些末なディテールを大胆に切り落としている。
 だから、ストーリーが同じような結構を持っていても、それが意味するものはまったく違っているのである。
 そして、ほんらい中心にあってしかるべき、スクールアイドルのイベント「ラブライブ!」の有様が作中でも全くといっていいほど描かれていない。これもまた特筆すべきだろう。作品タイトルにもなっているし、そもそも、μ'sを結成したのは、この大会でアピールすることが目的だったのに。
 もっというならば、「スクールアイドル」とは何なのかすら、作中で十全に語られているとは言いがたい。
 同じく「廃校の阻止」がモチベーションになっている最近のアニメ作品に『ガールズ&パンツァー』があるが、この作品はクライマックスで「試合」を中心に据えている。それとも全く対照的なところだ。
 このような、いろいろなディテールを大胆にカットし、物語のエッセンスたる「神話」に近づいたのが本作なのだ。
 「英雄」μ'sはこの世界でスクールアイドルの「象徴」として君臨する。μ'sは解散を決意するが、その前に「スクールアイドルの素晴らしさ」を伝えるためのイベントを開催するのだ。全国のスクールアイドルをバックにして「SUNNY DAY SONG」を歌い踊る秋葉原ライブにはただ事でない祝祭感が表現されている。
 そして、本編のラスト。
 音ノ木坂学院に入学してスクールアイドルになったとおぼしき高坂雪穂と絢瀬亜里沙が「アイドル研究部」の新入生歓迎会で、μ'sの歴史を語る。それは劇場版全体が、彼女たちの語る「口伝」として再構成されたことを意味する。
 μ'sの傍らにいた彼女たちが語ることによって、「神話」は受け継がれていく。そして彼女たちも、また新たな「神話」の担い手になるだろう。

(想定媒体:「Febri」)

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