『図書館戦争』シリーズを巡ってあれこれ考えたこと(2008年6~7月執筆)

2008年当時やっていたblogに載せていた記事です。昨今ネットで繰り広げられた論争(?)を見るにつけ、今出しておくのもいいかもな、と思って転載しました。文章がおかしいのはblogをそのまま転載したせいです。



『図書館戦争』と言論の自由と快楽原則と(2008/06/27(金)執筆)


『図書館戦争』アニメの放送が終了した。本作の放映が始まった頃、最近改装された千代田図書館で「蔵書に見る検閲」というような展示をしていた。戦前の蔵書には内務省が検閲した印が残っているそうだ。
原作は未読だったので、アニメもそんな問題を取り上げつつエンターテイメントしてくれるのか、と始まる前は結構期待していたが、ところがどっこい、近来まれに見る「酷い」アニメであった(見ていない回もあるのだが)。
 暴力的にメディア統制を図る「メディア良化隊」に対抗するために図書館が武装して戦争状態にあるという設定そのものには突っ込みを入れない。荒唐無稽に見える設定に説得力を持たせるのは小説やアニメの見せ所。問題なのはその描かれ方。とにかく、卑劣な手を使ってくるのは全部「敵」の側。やられて悲劇的な死を遂げるのは味方(ラスト1ではそうとしか思えない描写だったが、最終話ではなんと、全身に貫通銃創を受けながら死んでいなかったことが判明。主人公側に苦難を与えられない姿勢には失笑するのみ)。致死性の兵器を使って敵を殺しておいて、それを糾弾されるのは「悪」らしい。もう一つおまけに言えば、非武装を唱える勢力は敵と内通する卑劣漢。何だろう、これは。

 とまあ、見るたびに呆れていたのだが、最終回はその集大成のようだった。いろいろ言いたいが、2点だけ挙げよう。
 武力衝突で相手側に死者が出たことで報道陣に迫られた主人公が「無法でたくさん」と口走るのだが、法律で保障された武力を持った勢力の一員がそう表明することって、とっても恐ろしいことだと思うんですが。警官が挙動不審な人物を即時射殺してもオッケー、ということ? だが、この世界の市民にはその暴言に対する支持があるらしい。
 それと、エンディングのナレーションで「司法省に頼んで偏向報道をやめさせた」とかさらりと言ってのけるところがある。それは作中人物が命を賭けて護っているはずの「思想の自由」を蹂躙する行為じゃないか。それとも「主人公側の目的に叶う検閲はよい検閲」とでもいうのか。「社会主義国の核兵器はきれいな核兵器」という言葉があったな。まさか『スターシップ・トゥルーパーズ』的な「皮肉」なのか?

 こういう作品が作られてしまうのって結局、「表現、思想の自由」と「快楽原則」がごっちゃにされているからじゃないのか。
 メディア規制に反対している側のモチベーションってのは「表現の自由」を表向き掲げながらもその実「快楽原則」の擁護である場合が多い。「オレたちの楽しみを邪魔するな」という……。それはそれで正当なことで、「戦争を美化しているから悪い作品」みたいな近視眼的な糾弾は愚かだし、未だにその域を脱していない手合いが少なからずいるのは認めますが、それを退けていった結果出来したのが、単なる快楽原則の自堕落な肯定で、他者に対する不寛容とか差別主義とか敵対的言辞を露悪的に垂れ流すのが「タブーなき自由な言論」という発想を蔓延させる元になってしまったのは、これはこれで無惨な光景ではあります。『フルメタルジャケット』が、戦争と軍隊が人間性を破壊して殺人兵器にしてしまう狂気を描いた作品であったはずなのに、ハートマン軍曹の悪罵だけを取り出してそれを「萌えキャラ」に言わせて面白がっているような作品にも同種の不快感を覚える。
 子供の駄々レベルのいちゃもん付けに「自主規制」として先回りして屈するメディアの態度がこんな事態を招いたのだ、と言いたい気持ちもないではないけれど。

 それにしても、エンディングに「協力」というキャプションが入っている日本図書館協会はどう思ってるんだ。「図書館で他人の借りた本を調べる」みたいな映画やドラマの描写には文句をつけるのに……と思っていたら、原作を批判した図書館関係者がアニメでは「主人公側を陥れる策略を巡らす悪党」として「出演」している。どうやら原作通りの描写らしい。やれやれ……。

『図書館戦争』原作感想(2008/07/01(火)執筆)


 結局、読んでしまいました。

 2作目『図書館内乱』まで読了したが、まずは『図書館戦争』の感想から。
(ネタバレありますので注意)
 店頭で見れば分厚いハードカバーだが、メモを取りながら1冊1時間強で読了。

 世界設定の基本についても、やはり、あまり説得力があるとは思えない。メディア良化法が成立した経緯についても「政界七不思議のひとつ」と投げている。

 第3章、第4章はよかったか。第3章。連続通り魔殺人事件が発生して、犯人である少年が逮捕される。警官が図書館にやってきて、少年が閲覧していた本の貸し出し記録を調べさせてほしいと要求する。
 作者は警察のこうした行為に対しては批判的だ。地下鉄サリン事件のとき、国会図書館で化学兵器関係の専門書の閲覧記録を警察が調べたことがあったそうだが、それを作中では図書館の自由が侵された痛恨事として書いている。

 原則は状況によって左右されるべきではない、と稲嶺は静かに結んだ。それが図書館から警察への痛烈な皮肉にもなっていることは部下にも通じていないだろう(P158-P159)

 第4章は前章の続きのような内容で、その事件を受けて「子供の健全な成長を考える会」が暴力描写のあるライトノベルをやり玉に挙げ、図書館が蔵書を処分させられる。それの抗議で子供たちが集会にロケット花火を打ち込む、という内容。

「『考える会』は正規の手続きを踏んで今日の集会を開催した。正しい手順を踏んだ相手に花火を打ち込んだお前たちとどっちが真っ当に見えるだろうな」(P220)

 図書館は子供たちを集めて『考える会』に対抗する知恵を出し合うよう指導する。子供たちは自主的に作った「アンケート」を突きつけ、規制側に楔を打つことに成功する。問題解決の手段として、常に戦闘を選んでいるわけではないである
 「思想、表現の自由」という原則をみだりに曲げるべきではない、という作者の姿勢には共感する。だったらなおのこと、最終話で笠原に「無法でたくさん」と叫ばせるのは、作者の意図に反しているのでは? と思わざるを得ない。

 公序良俗を謳って人を殺すのか。日野の襲撃者たちを弾劾した言葉はそのまま稲嶺を弾劾する。本を守ることを謳って人を殺すのか。
 殺すとも、と言い切れるほど割り切ることは出来ないが、やはり稲嶺は無抵抗を却下する。
(P275)

 アニメではこういった部分をカットして、代わりに、あまり説得力のないドンパチを増やしてしまったようだ。しかし原作も、ドンパチやってるのに死人が出るようには見えないし、拉致だの人質取っての要求だの「卑怯な手」を使うのは相手側、という点は変わらないようだ。

 とまあ、読了感は悪いものではなかった。『図書館内乱』の感想は次回。 

『図書館内乱』と論争と同床異夢と(2008/07/02(水)執筆)


 で、『内乱』の感想(やはりネタバレありです)。

 この本ではストーリー展開にちょっと強引な点が目につくようになってきた。
 図書隊が属する「原則派」でも妥協を図る「行政派」でもない「第3の道」を説く手塚慧に同志になるよう迫られても、笠原の「それじゃあ時間がかかっちゃうじゃないですか! 読みたいのは今です!」で強引に終わらせてしまう。まあ、この手の「オルグ」にはヘンに議論して丸め込まれる危険を冒すより、「いやだからいやだ!」で拒否したほうが効果的な振る舞いだとは言えますけどね。
 
 『レインツリーの国』という本を作中人物の恋人が読んで感動したという件がある。後書きにも明記されているが、同タイトルの本を作者が執筆し「コラボレーション」させている。好意的に解釈すれば楽屋落ちか読者サービス、悪意に取れば作者のナルシシズム。そこまで悪意に取る必要もないか。
 あとは例の「一刀両断レビュー」の件か。國學院大学准教授(当時)須永和之氏にBlogで批判されたのを受け、この『図書館内乱』で、図書館サイトのコンテンツで批判的なレビューをする人物に「砂川一騎」という須永氏をもじった名前を当て、さらには主人公に罠をはめる役回りを演じさせる。

 その件についてもう少し詳しく知りたくて、豊島区立中央図書館に行って特集記事が載っている2006年12月号の「図書館雑誌」を閲覧、当該箇所をコピー(禁帯出なので)。一緒に有川氏のロングインタビューが載っている『ず・ぼん13』(ポット出版)を借りてきた。

「図書館雑誌」というのは名前の通り、完全な業界誌。図書館業界には業界誌がいくつもあるらしい。一方『ず・ぼん』は一般読者も意識した誌面作りになっている。
 特集記事は「『図書館戦争』刊行をどうみるか」というタイトルで、渦中の人物、須永和之氏が書いた批判記事ともう一本、灘中灘高の学校図書館の司書(司書教諭?)の方が書いた「『図書館戦争』『図書館内乱』よもやま話」。こちらは好意的である。

 で、当の須永氏の「ちょっと待った!『図書館戦争』『図書館内乱』」。読んだところ、わたし的にはあまり納得も共感もできなかった。設定の矛盾点も指摘されているが、大筋では「図書館員が武装すること」への嫌悪感に力点が置かれているから。筆致も高飛車で、無用の反撥を買いかねない。でもまあ大前提として「こんな意見があると表明すること」自体はいいんじゃないですか、とは思う。たとえば刑事ドラマを見た現職警官が「現実の警察はこうじゃないよ」というような。
 しかしそれに対する有川氏や版元の反応は過剰にも思える。『ず・ぼん』のインタビューで、「法的措置も考えた」といったり、「怖い話」と前置きして須永氏のプライバシーを持ち出したり「図書館界と私の交流は、ある意味このお方一人のお陰でずっと阻まれてきたんです(P160)」と発言するのは、率直に言って首をかしげてしまう。
 かつて、ある文芸雑誌の編集者が他社から出た雑誌に書いた記事で、あるとっても偉い作家をぼろくそにけなしたら、当の偉い作家が版元の社長に「自分を批判するような編集者がいるような出版社とはつきあえない。おたくとは絶縁します」と怒りの手紙を書いてきたという話がありまして、それを彷彿とさせます。
 勤務先などをWebに載せていることを指摘して「公職に就いておられる方としてはちょっと迂闊でしたね(P160)」というが、須永氏は公職に就いているから、専門範囲の記述がある『図書館戦争』を俎上に挙げたんじゃないのかな。これが、関係ない職業のひとが趣味でやってるBlogの記述だったら話は別。個人的な諍い事を勤め先にたれ込まれたら堪ったものではない。逆も然り(笑)。須永氏のそもそもの記述には迂闊な部分もあるとは思いますが。
 読んでみるとどうも、有川氏らは須永氏のBlogが図書館協会のサイトからリンクを張られていたことを問題視したようだ。リンク先のどこまでがリンク元サイトの文責か、というのはWWWの最初期からある問題なので、ここでは言及しないが、しかしそこまで「過剰反応」したのは、須永氏の文章が醸し出す、ある「雰囲気」にあるかもしれない。結びの一文は、こうだ。

 実際の図書館とかけ離れたものと割り切って、エンターテイメントとして十分に楽しめるが、憲法改正が論議され、教育基本法の改正が国会で審議される今日、「図書館の自由」のために戦闘を合法化する小説は不気味すぎる。

 たとえば、かつて、いや、今でも流布されているこんな文句を思い浮かべないだろうか。

「ロボットアニメは戦争を賛美しているからけしからん」
「弱者を笑いものにするようなお笑い番組は教育上よろしくない」
「テレビゲームばかりやっていると暴力的な子供に育つ」
「あの犯人はロリコンマンガを読んでいたせいで事件を起こした」
「『ウルトラセブン』の12話は被爆者を差別してる。放送するな!」 

 アニメ、マンガ、ゲーム、娯楽小説などの「サブカルチャー」を楽しみ、思い入れをしてきたひとびと(わたしを含む)は、こんな言葉にうんざりして、怒りを覚えてきたはずだ。『図書館戦争』読者の世代にとって一番「リアル」な「表現の自由の抑圧」の姿。そして、これらの言葉をぶつけて非難し、抗議してきた「勢力」はにしばしば「反戦」「平和」「反大企業」という思想と親和性が高いひとびとが目立った。
 むろん、須永氏がこのような意見を持っているかは定かではないし、単一の団体がこれらの主張にすべて賛同しているわけではない(だろう)。しかし「オレたちの楽しみを邪魔している」という点で「同一」に思えてしまう。それに有川氏は「自衛隊大好き」で知られているから、自衛隊がこの手の人々にどのように扱われてきたかとダブっても不思議ではない。
 しかしそれは本来、「図書館の自由に関する宣言」が想定していた事態ではない(肯定否定はとりあえず、横に置いて)。そう非難してくる個人や団体はしばしば「国家権力や商業主義マスメディアの暴虐と戦っている」というスタンスを取っている。あくまで「批判」『糾弾」。
 だから須永氏の「また,検閲という言葉を安易に意味を履き違えて使っていることに違和感を感じています」という言は、その限りにおいて正しいところをついている。本シリーズで描かれている「検閲」は、もともとの「図書館の自由に関する宣言」で言及されている「検閲」とは、別のものだ。「検閲」を本作では「不当な検閲」と改変したのはそこまで踏まえてのものだろうか。

 この作品を図書館協会が評価するのって「同床異夢」のような気がしてならない。まあ、同床異夢を見て悪いという法はないんだけど、認識はしておかないとまずいことも出てくるのではないかと思わないでもない。取り越し苦労でしょうか。

 残りの『図書館危機』『図書館革命』も今週中には読もうと思います。外伝は……どうしようか。


『図書館危機』と無邪気さと(2008/07/05(土) 執筆)


 しばらく、ぐだぐたと長文を垂れ流してきたが、自分でも上手く書けているかどうか自信がない。要らぬ反撥を買いそうな気もしないではない。
「メディア規制と戦っている作品に些末なケチを付けて、結果として規制推進派を利してるんじゃないのか?」「『快楽原則』『オレたちの楽しみ』を擁護することは所詮エゴで、日本国憲法に麗々しく謳われている『思想の自由』とは似て非なる物、って言いたいのか?」と、迫られたらどうしよう、と戦々兢々としています(笑)。
 無論、そんなことは言う気はない。繰り返しますが、わたし自身は「快楽原則」「オレたちの楽しみ」を擁護することは全く正しいと考えていますし、それらに優劣をつける気もありません。
 しかし前々から思っていることなんですが、それを「思想の自由」と称することに以前から「違和感」を抱いていた。「戦うためのスローガン」としては有益にせよ、齟齬は出てこないか。
 その「反対」の一部には正直、納得出来ない部分もあって、どうして違和感を感じるか、納得出来ないかをこの機会につきつめて考えてみようじゃないか、というのが、こんなBlogを書いているモチベーションのひとつであります。
 「表現の自由と規制」を巡る問題で、われわれは多かれ少なかれ「傷」を負っている。大変生々しい「傷口」で、未だに血が流れているか、せいぜいかさぶたが張っている程度。その「傷口」に触れることは、激しい「痛み」を伴ってしまう。
 だからといって、傷つけてくるあいつらが悪いんだと傷を舐め合ったって「道化芝居」にしかならない。この傷を癒す方法、新しい傷を付けない方法はあるのか。その課程の中でついつい触ってしまうことはある。それはご理解いただきたい。不用意な触り方をしたら遠慮なくご指摘いただきたい。
「オレだって痛いんだ。でも我慢してるんだよ!」

で、『図書館危機』も読了しました。(ネタバレ有ります)

 アニメの9話から最終回までのエピソードが収められている。アニメではカットされた3章の「ねじれたコトバ」は、ファンの人気も高いようだ。こういったエピソードをことごとくオミットしなければ、印象もずいぶん変わるのだが。
 5章はアニメのクライマックスでもある茨城図書館を巡る攻防戦。この部分が最大の「問題」でもあるわけだが、基本的に原作と一緒であります。
 市民団体「無抵抗者の会」が強い影響力を持つ茨城県立図書館で、陰湿な嫌がらせに会う郁。自衛隊と「平和団体」のメタファーであることは容易に判明する。
 かつて教師とか労組の関係者とか「革新政党」支持者に、自衛隊員やその家族が「白眼視」されていたとはよく聞く。昭和30年代にあるとっても偉い作家が「防衛大生は同世代の恥辱」と書いたことがありまして。
 アニメの通り、激しいんだか生ぬるいんだかよく分からん戦闘があって、「無抵抗の会」は形を変えた良化法賛同団体だった、という案の定なオチで終わる。でも現実世界のスパイ(内通者)というのは、スパイらしからぬ行動を取るもの。過激な対立方針を煽るリーダーが実はスパイ。跳ね上がり路線が世間の反撥と弾圧を招く、なんてのがあってもいい。実際にそんな例があったのだし。

 マスコミ相手に「無法でたくさん」と叫ぶとか、圧力をかけて偏向報道を辞めさせたなどといったデタラメな場面はない。大体、マスコミ自体ほとんど登場しないし。その点は作者の責任ではないが、疑問を感じないのだろうか。

 シリーズ全体を先取りした感想になるけど。作者にとって登場人物が「可愛すぎる」ような気がするんですよ。だから死ぬことはないし、手を汚させられない。本当の意味で苦難や葛藤を負わせられない。
 作者は自衛隊(軍隊)の「凛々しさ」とか装備とか行動原理とかに「萌えて」いるようだけど、それが何のために要請されているか(無論、戦場で命のやりとりをするためだ)という問題はあえて深く突っ込まないのか、あるいは興味がないようだ。
 この辺、良くも悪くも「無邪気」だなあ、と思った。「無邪気」ってのは本シリーズの、いや、作家有川浩のキーワードかも知れない。図書館(本)、自衛隊、ベタ甘のラブコメ、死にも殺しもしない「戦争」と自らの「正義」を保証する「大義名分」。好きなものだけいっぱい詰め込んだワンダーランド。
 その「もてなしの良さ」は大したものだと思うが、一抹の不安と疑問も感じないでもない。やっぱり「快楽原則」じゃないか、と。わたしも歳を取ったのか。


『図書館革命』と『別冊図書館戦争1』と(2008/07/06(日) 執筆)


最終巻です、ついでに『別冊図書館戦争』も同時に取り上げます。

 冒頭原発を標的にしたテロが発生。似たような小説を書いた作家が槍玉に挙がり、良化委員会に追われる身になる。
 かつて三億円事件が大藪春彦の小説の模倣だといわれたことがあったし、黒澤映画『天国と地獄』は、吉展ちゃん事件はじめその後発生した身代金目的誘拐事件の「元ネタ」とされ、未だに誘拐を題材にしたミステリーの「トラウマ」になっている。
 笠原郁ら関東図書隊は作家を匿う。取引を図ろうとする「未来企画」などとの確執。自分たちは正義ではない、と作中人物はいうが、それにしては相手の「正義」は語られない。

 しだいに追いつめられていく。事態打開のため、マスメディアの大同団結を提案。事態の真相を伝える番組を作成し、放送禁止になっても別の局で続きを放送する「パス回し放送」を行う。良化委員会はいつの間に「即時の放送禁止処分」が出来るほどの権力を持ったのか。さしたる抵抗もなく大同団結するのも都合がよすぎる、と突っ込むべきか。
 全マスコミの大同団結というのも、見方を変えれば「両刃の剣」「劇薬」で、例えば60年安保の時、新聞各社は「暴力を排し議会主義を守れ」という「共同声明」を出し「言論の自由の自殺行為」と言われたこともある。

「自分がいつ押しつける側に回るか分からないから恐いんですね、こういうの。あたし思いこみ激しいから、いつ自分が押しつける側に回るか分からないので恐いです」(P92)
 原作の郁はこんな感慨を漏らす。作者はアニメスタッフを非難すべきだ。

 報道規制に対して憲法判断を求めて裁判闘争をするが、最高裁で法律の有効期間に期限はつくも実質敗訴。下級審では違憲判決が出るが最高裁では「高度の統治行為」で判断放棄、だったら面白かったかも(「長沼ナイキ訴訟」で調べてね)。
 柴崎の案で作家を亡命させることにする。紆余曲折あって(読んでね)結局作家の亡命は成功。米英はじめ他国からの非難、圧力で、将来的な良化法の消滅と、同時に図書隊の消滅することも暗示して終わる。
 一気に読めて読了感も満足。ちりばめられた小技も効いている。どうしてこの巻をアニメにしなかったのだ? それとも、今後のOVAに期待を繋いでいるのか?
 ただ、ストーリーの主眼がメディア戦略と法廷闘争、それにアクションになってしまい「図書館」が背後に回ってしまったのがちょっと物足りない。
 テロそのものは事態のきっかけを作るために設定されただけのようで、作中で第2弾が起こるわけでも元締めが捕まるわけでも、犯行グループが当該小説を参考にしたと表明したわけでもない。

 結局、メディア良化委員会が存在する理由は「利権」としか語られない。良化委員会の側にもカリスマ的なアジテーター、あるいは動機において理解出来る存在がいてもいいような気がする。たとえば、『戦争』で出てきた通り魔殺人の被害者遺族が、メディア良化運動の熱烈な支持者になる、というような。
 そう思っていたら、この巻の後書きにはこうある。
 「まず、良化委員会の言い分が書かれていないことを指摘するご意見を今までにいくつか頂きましたが、これは敢えて書いていません。その理由もここでは触れません」

『別冊図書館戦争1』こちらはカーテンコール的な外伝。『2』以降も出るんだろうな。
 正直言って、「ラブコメ」についてはわたしはよい読者ではないと思うし、そんなところまでとやかく言うのは「批判のための批判」になってしまうので(でも「戦争」「軍隊」をそのダシにして屈託がないのはどうなのかな、とは思わないでもない)。
 その1編で差別用語を一切使わずに「差別表現」を繰り返す作家が出てくる。良化法を挑発する意図で、趣味でやっていると公言する。小説そのものは「毒々しくて好きになれない」。
 そういった行為は批判的に描かれているけど、そりゃそうだわな、としか言いようがない。

 次のエントリで「総括」になります。シリーズ全部を読み通して思ったこと、図書館との関係、「自由」と「快楽原則」との兼ね合いはどうあるべきか、などなどを、またぐだぐだと語ることになると思います。
 ああ、結局週末を潰してしまった……。


『図書館戦争』感想と言葉狩りと総括と(2008/07/11(金)執筆)


 以前どこかの本で読んだのだが、こんな言葉があるらしい。「検閲制度の一番よくない点は、検閲を通らなかった本が自動的に優れたものとされてしまうことだ」

 で、『図書館戦争』に関して考えたことの自分なりの総括であります。以前書いたことの繰り返しになるかも知れませんが、それは「まとめ」ということでご容赦ください。

 最近読んだある雑誌の話から。別件の調べ物をしていて、偶然読んだのだが、今回の件について考えるのにちょうどよいと思えたので。
 ホロコースト捏造説を載せたせいで廃刊になってしまった「マルコポーロ」という雑誌がある。その1994年12月号の特集は「『言葉狩り』徹底追究。」当時世を賑わせていた筒井康隆氏の「断筆宣言」と、それを受けて盛り上がった「言葉狩り」についての特集である。
 まず筒井氏のインタビューが載っていて、タイトルは「これからの敵は、君たちマスコミだ」。
 次の記事では、「具が大きい」「手作り」「富山の薬売り」などとCMで些末な部分をあげつらわれた例がいくつも取り上げられている。まったく下らないものばかりだ、と笑い飛ばすのは簡単だが、ちょっと待って欲しい。すべての「糾弾」がそうだとは言い切れませんよね。これは「差別」と判断するのが妥当だと思った事例も併せて考慮しないと、単なる事態の矮小化、戯画化にならないだろうか。
 この問題に20年間取り組んでいたというライターの記事が載っていて、いろいろと提言をしている。「『差別表現』対『表現の自由』という”二項対立”の考え方をやめる」「密室的処理をやめ、論議を公開する」「『不適切な表現がありました』式の曖昧な『おわび』はやめる」などと、耳を傾けるべきものも多いのだが、その記事の見出しをみると「指が四本で差別コミック。」キャッチーな見出しを付けたがるのは理解出来るが。見出しの件は『覚悟のススメ』で「指四本」のコマを自主規制で描き変えられてしまったという話。事前に解放同盟に「この表現でよいか」と相談し、問題なしとしたにも関わらず、である。この件で結局解放同盟はいい面の皮である。
 この問題はそもそも、糾弾、非難に対してろくな論議も主張もせずに「自主規制」しまうメディアの姿勢を問うていたはずなのに、いつの間にやら糾弾する側が「煩いやつらなんだから相手にしない」「偏った信念や『利権』を擁護するためにケチを付けている集団」という「色眼鏡」でみられるようになってしまった。
 そして、批判されるべき悪感情を「差別用語」混じりにあけすけにぶちまけるのが「正義」という解釈をする手合いも少なからず、現れるようになった。
 これは大変、不幸なことだ。
 作者のファンサイトでは、トップページで人権擁護法案についてのまとめサイトが紹介されている。
 そのまとめサイト、リンク集で取り上げられているサイトには、特定勢力に対する敵対心や陰謀論めいた言辞を弄するところが少なからず混ざっている。わたし自身正直な話として、「人権擁護法案に反対することは、そういったものに賛同していると同一視されてしまうのか……」という思いもある(リンクをたどれるところにあるから当該言説に賛同していると受け取っていい、というのは意地悪に過ぎるだろうか?)。
 もちろん、対立する思想の持ち主が当座の目的のために「共闘」することはあっていい。
 暴対法が国会で審議されていたとき、「極道の妻たち」と左翼系の市民団体が一緒に反対デモを行っていた。その光景に「いくら主張が同じでも、一緒にデモというのはやりすぎ」と書いたコラムニストがいた。わたしもそう思う。
 まあ、それはともかく。

 振り返ってみれば、このシリーズで表だって書かれている事件はどれも「政治的」なものではない。『図書館革命』の原発テロがそうかもしれない、とは思うが、小説(エンターテインメント)中の描写が事件を連想させる、という「非政治的」なものだ。
 主人公の笠原郁が図書隊を志望するきっかけになった事件も、好きだった絵本が作中に「こじき」という言葉を使ったという件で「良化」の対象になった、ということだった。
『図書館戦争』シリーズに登場した「メディア良化委員会」もその意を呈したPTAや「子供の健全な成長を考える会」、その動きを黙認している警察にしろ、「政治的」なものは感じられない。
 作者にしてみれば、「あえて書かなかった」というだろうが。
(作者は良化委員会と図書館の関係は「中央対地方」の意味も込めていると語っているが、警察というのは上層の「キャリア組」こそ国家公務員だがあくまで地方分権の組織で、対して図書隊に肩入れしている自衛隊は国家の組織。この「ねじれ」はちょっと面白い)

 繰り返しになるが「快楽原則」を擁護することは正当だ、と考えるし、それを入れて「言論の自由」だ、という意見にも賛同する。
『図書館戦争』シリーズは「願望充足」と「快楽原則」が支配するエンターテインメントである。そうだからといって、作品を貶める理由にはならない。しかし、それ以上のものを読み取るのはちょっと違う。
 たとえば『北斗の拳』とか『必殺仕事人』みたいに、悪人は容赦なくやっちまえ、みたいな「お話」がありますよね。読んでて痛快だし野暮な突っ込みをつける気も毛頭ないですが、現実の事例とごっちゃにしちゃいけないし、ましてやそれを警察や裁判所が評価するのはおかしいじゃないですか。『図書館戦争』の場合、その距離ははるかに近いとはいえ、同種の違和感があるんです。
 図書館協会のひとは、そういったことを理解すべきだったし、その上で「エンターテインメント」として評価してほしかった。
 アニメ最終話については、論外だろう。「護りたいもの」が「オレたちの楽しみ」でしかないことを、はしなくも露呈させてしまった、というべきか。

 正直言えば、「こんな出会い方はしたくなかったなあ」と思います。わたしとてエンターテインメント小説のすべてにこんなケチを付けているわけではない。
 一気にハードカバーのシリーズを読み進めていろいろ考えていくというのは、最近ではなかなかない読書体験だった。原作者の有川浩さんには感謝すると同時に、勝手に俎上に挙げてしまって大変申し訳ないと思っております。いや、大変失礼しました。

 それでは、この辺で。

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