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A to Z

この作品はきょくなみイルカさんの依頼に基づいて制作されたイラスト原案の二次創作小説です。

 アドレナリンの供給が止まり、代わりに汗が噴き出した。

 無鉄砲な蛮勇に従って動いた末に辿り着いた袋小路の果ては、夕陽に照らされるバラック建築の陰だ。消えかけたネオン看板の灯が〈KEEP OUT〉の文字を形作るのを一瞥し、男は大袈裟に唾を吐く。せめて恐怖に駆られていると気付かれないよう、虚勢を張るしかないのだ。
 懐に忍ばせたパケの中身は、砕いた錠剤と焦げた紙幣。男はそれをポケットに押し込み、吹き出す汗を手で拭う。特有の虚脱感だ。その理由が副作用でも、別の要因だったとしても、彼にとってはどうでもよかったのだ。

 男は、追われていた。いつものようにドラッグを売り歩き、快楽を共有する。それを途中で邪魔されたのである。

「……なんだよ、なんなんだよ!?」

 張り上げた声は裏返り、乾いた喉がひび割れたような悲鳴を搾り出させる。バッドトリップで見る悪夢であればいい、と男は思った。

「……お兄さんに恨みはないんだけど、これもこの街を守るためだ。ごめんね?」

 黄昏に染まる空を背景に、追跡者はゆっくりと足を進める。その背丈は小柄だが、声色には奇妙な威圧感があった。
 男は目を凝らし、追跡者の正体を見定める。褐色の肌に、色を抜いたかのような白髪が目立つ少年だ。長い髪が風で揺れ、決断的な視線が交錯する。

 男は安堵の息を漏らす。いざ顔を見れば、弱々しそうな少年だ。自分でも殺れる。そう思ったのだ。

「……なんだ、ガキかよ。役人の真似事か? あのな、これはまだ違法じゃない。それに、ここは……」
「ここは特別区。役人なんて滅多に来ない吹き溜めのスラム、だよね? だから、尚更見逃すわけにいかない。そのために“僕たち”が居るんだよ」

 男の声を遮るように、少年は徐々に語気を強めながら男の眼前へ接近する。小さな手に握られた鈍い光が煌めき、男の視線を僅かに怯ませた。バタフライナイフだ。

「おいおい、なんだ? それは玩具《オモチャ》みたいに扱える代物じゃねぇぞ?」
「……もちろん、わかってるよ?」

 バッドトリップが見せる幻が、少年の姿を変容させる。眼前に現れたのは、黒影の死神だ。灰のような髪はどこか髑髏を彷彿とさせ、揺れるナイフは巨大な業物めいている。
 男は慌てて頭を振った。ラリった時特有の悪夢だ、と静かに呟く。

(違う、違う違う! 敵はガキだろ? 一発殴ってやれば……)

 不安を振り払うようにせせら笑い、拳を握る。体格も、人生経験も違うのだ。武器を奪い、現実を見せてやればいい。

「……鉄火場の経験が違うんだよ、ガキィ!!」

 振りかぶった右の拳が、静かに止まる。ハンマーめいて振り下ろされる暴力の波を、少年は正面から受け止めたのだ。細い脚がハイキックによって空を切り、斥力を発生させる。ぽきっ、という軽い音と共に、男の腕骨がへし折れた!

「がッ……!?」
「悪いね、こっちも経験だけはたくさんしてるんだよ」

 ナイフの刃先を男の喉元に突きつけ、少年はあっけらかんと笑う。鮮やかな手捌きだ。その態度はやはり超然としていて、男は折れた腕を垂らしたまま声を上げることもできない。

「で、どうする? 一応、選択肢はふたつあるんだ。売り捌いていたものを捨てて二度とこの街に来ないか、ここで野良犬の餌になるか。今なら選ばせてあげるよ?」
「……なぁ、坊ちゃん。安くするよ、なんなら無料《タダ》でいい。だから、見逃してくれよ……」
「いや、そういうことじゃないんだけど」
「わかってる、わかってるよ……。試してない奴はみんなそう言うんだ。いっしょに気持ち良くなろうぜ。辛いことなんてすぐに忘れられるんだよ……」
「救いようがないね、アンタ」

 事実上の処刑宣告だった。少年は大きく腕を振り、銀の刃を男の喉元に——。

 オーバードーズが見せる澱んだ意識の中、男は世界の全てがスローモーションに見えていた。明確な命の危機だ。全身から流れる汗が地面に落ちる時間さえ遅く知覚しながら、彼は自らの死を却って冷静に観察していた。
 首を狙っていたナイフは、肌に触れる瞬間にその動きを止める。喉笛を掻き切ることなく、少年の動きは緩やかに収束していた。
 たった3秒。男の視線がナイフに注がれた短い時間だ。それが、彼にとっての痛手だった。

 頭上の廃墟めいたビルの4階。眼下の路地裏に向けて飛び降りたのは、その姿に気付いた男を動揺させるには十分な存在だ。
 小柄な身体、色を抜いたかのような白髪、逆光に溶ける褐色の肌。目の前で自分を殺そうとする少年と瓜二つのその姿は、男にバッドトリップの幻覚を感じさせる。死神が二人に増えて、自分を殺しに来たか。彼は確かに恐怖していた。
 しかしながら、それは幻覚などではない。かと言ってドッペルゲンガーなどでもなく、そこに確かに存在する実体である。彼らはよく似ていて、決定的に違った。髪の長さが。持っている武器が。そして、周囲の空気を震えさせるほど決断的な殺意が。

「———殺す」

 落下による速度で巻き上がった髪は短く、よく見れば瞳の形も違う。男がその事実に気付くのは、落下してきたその少年が彼の額にグロックの銃口を突き付ける瞬間だった。

    *    *    *

 数日後。バー『ネハン』にて。

「邪魔するぜ。ちょっと聞きたいことがあるんだよ」
「いらっしゃい。見ない顔だねェ」

 カウンター越しに、老いた店主は薄笑いを浮かべる。灰色の髪をオールバックにし、皺だらけの顔はよく日に焼けていた。
 入店した男は丸椅子にどっかりと腰を下ろし、瓶入りのエールを注文する。白髪の少年2人が奥から駆け、男の眼前に酒瓶を置いた。

「ウチは家族経営でな。あまり客は入れないんだ。初めて来る奴は、こんな所まで進んでこないだろ?」
「ずいぶん奥まった場所だもんな。だからこそ、常連の顔は覚えてるだろ?」

 そう言うと、男は懐から写真を取り出し、カウンターに滑らせる。老店主は目を細め、被写体の顔相を眺めた。

「非合法なプッシャーだよ。取調べ中に逃げて、どこかに潜伏したらしい。見覚えは……?」
「おいおい、ここは探偵事務所じゃねぇぞ? 役人さんよ……」
「………俺だってこんな街に来たいとは思わなかったさ。法律が通用しない、吹き溜まりなんかに」

 スラムの外から役人が来ることは稀で、それが犯罪捜査であることはもっと稀だ。この街が犯罪の温床だというのはこの国なら赤ん坊でも知る事で、それは暗黙の了解になっているのだ。

「知らねェ顔だな。それに、この街でヤクの取引は御法度だ。潜り込んだとしても、今頃身ぐるみ剥がされて叩き出されてるよ。他を当たってくれ!」
「……そうか、邪魔したな。悪かった、もう二度と来ねぇよ」

 役人はエールを一息で飲み干すと、硬貨を投げてバーを出て行った。それを最後まで見送ると、老店主はゆっくりと息を吐く。

「アズ、ゼア。もういいぞ、死体を流せ」

 名前を呼ばれた白髪の兄弟は、給仕の制服から伸びたループタイを解きながら談笑する。背格好も歳もほとんど同じ、双子の兄弟である。

「……あの人、悪運強いね。あとちょっと突っ込んでたら、バラされてたよ」
「……毒殺は性に合わないからな」

 髪の長い少年——ゼアは兄であるアズと協力し、部屋の隅に置かれた例のプッシャーの死体をカウンターまで運ぶ。その遺体は所々損壊しており、ゼアは思わず顔を顰めた。

「オルド、これイジったでしょ? 縫合跡とか雑なんだけど……」
「あぁ、ウチの若い衆に調べさせたんだ。やっぱり、腹ン中に密輸用のパケ仕込んでやがった。たとえ死んだとしても、死体さえ回収すれば実質的な損失はない。いかにも奴らがやりそうな事だぜ」

 老店主——オルドは葉巻を咥え、節くれだった指を鳴らす。その合図で潜んでいた黒服がマッチの火を近付け、彼は紫煙を燻らせた。バーの経営は表の顔、実態はこの地区を統べるマフィアの長である〈猛る獅子〉ドン・オルドは、豪放磊落に笑った。

「だからなァ、代わりに腹に黒色火薬詰めさせたんだよ。麻薬カルテルの連中、きっとビビるぜ?」
「……俺たちが言えた事でもないが。最悪な趣味だな、ジジイ」
「ハァーハハ……いつかお前らも継ぐんだよ。“家族”だろ?」

 瞬間、双子の兄弟はカウンターを踏み越え、同時に自らの得物をドン・オルドに突きつける。

「「違う、殺害対象だ」」
「おいおい、お前らを生かしたのは俺の温情だぜ? 威勢が良いのは嫌いじゃないが、行儀くらいは覚えろよ?」

 老いた獅子は不敵に笑い、自分に向けられる殺意を気にしないかのように紫煙を吐き出した。

    *    *    *

 彼ら二人が生まれた時に天から与えられたのは、祝福ではなく武器と欠落だった。

 絶海の孤島、サン・ベネド。切り立った崖と一軒の洋館だけが目立つ小さな島には、26人の少年たちが住んでいた。
 彼らは全員が親の顔を知らない。捨てられたか、拐われたか、死に別れたか。国家に保護されることで命を繋ぎ、閉じた箱庭で生活することで得た安寧は、12歳というリミットで一旦終わりを迎える。選別を兼ねた、卒業試験である。

 Eはアイスピックを握ったまま、蜂の巣になって死んだ。無数の弾丸が談話室の壁に穴を開け、白いカーテンを焦げつかせる。血溜まりに落ちた無数の死体を尻目に、Zは自らに覆い被さったEの死体を払い除ける。
 周囲に充満する血の匂いと殺気。背後から襲い掛かかってきたEの血を浴び、Zの白い髪はまだらに濡れる。
 ここは弱肉強食の戦場。誰かを殺すために隙を晒せば、他の要因で死んでしまう事もある鉄火場だ。

「なぁ、居るんだろ? さっさと出てこいよー! 自由になろうぜ、Zー!」

 腹に響くサブマシンガンの音と共に声を張り上げるのは、Bだ。Zは壁を背に、部屋の向こうから聞こえるその声に負けじと声を張り上げる。

「自由!? 生憎、僕はその言葉の意味がイマイチ分からなくてね! 自由になったら、何ができるの?」
「知ってるか、好きなことができるんだぜ? こんな狭い島でチンケな人殺しをやるだけじゃない。戦場に出て、英雄になれるんだ。『1人殺せば殺人鬼、100人殺せば英雄』? だったら、俺は1万人殺して大英雄になってやる!」

 Bの哄笑を聞き、Zは己の武器であるバタフライナイフを構える。彼らに名前はなく、それぞれの“戦闘適性”に合わせてA〜Zにランク付けされたアルファベットが割り振られているのだ。Bは優秀な暗殺者見習いであり、与えられた武器も高品質だ。

「俺のキルスコアは8だ。この武器で、8人蜂の巣にしたんだぜ? その点、お前は殺人鬼にも英雄にもなれないんだよ。キルスコア0、落ちこぼれのZくんの末路は、俺の未来のための餌だ。逃げ回ってねぇで、さっさと死になッ!!」

 最終試験の達成条件は、最後の一人まで生き残ること。Zが試験開始時から一人も殺さず、気配を消して隠れていたことは事実だ。だが、それは生活を共にした相手を殺すのを避けるなどと言ったセンチメントからではない。

「……暗殺者の条件、って知ってる?」
「決まってるだろ、人殺しを厭わない覚悟……」
「それはここにいる全員が持ってるよ。本当に必要なのは、こういう事だ」

 怯ませるための詭弁だった。この状況でBに接近するのは、間違いなく自殺行為だ。
 だが、その作戦は功を奏した。Zは既に逃げ回るのを止めているのだ。サブマシンガンの銃口を弾くように、床に接するほどの低姿勢から居合じみたナイフの斬り上げを放つ!

「暗殺者が最初に殺すべきは、己の気配だよ」
「……ふざけんなッ!」

 一瞬の隙。バースト射撃の反動を力で抑えるように、Bは跳ね上がった銃口を無理矢理軌道修正させた。これも訓練の成果だ。そのまま引き金を引き、跳躍したZを的確に殺す。Bの思考は加速し、眼前の敵に目標を絞った。

「お前を殺せば、あと1人なんだよ……! 無駄に足掻かず、死ねッ!!」
「……勉強したはずだろ。そういう風に周囲が見えないやつから、戦場で死んでいくんだよ?」

 Bは気付かない。銃声に紛れ、接近する巨大な殺気の存在に。後頭部に当たるグロック銃口の冷たさに。

「——死ね」
「…………!?」

 そこに現れたのは、あらゆる点でZと対極の少年だった。キルスコアは最多の10。的確に他者の命を奪い、Aの名を冠する。彼は表情の読めない仏頂面で、静かに引き金を引いた。
 これで生き残りは2人。眼前に立つ孤高の暗殺兵を前に、Zは静かに笑う。

「僕のことも殺すつもり? 兄さん」

 彼らは親の顔を知らない。生まれた時からこの洋館で過ごし、お互いの血の繋がりや昔過ごしていた場所も理解できない。そのはずだった。
 初めてその存在を知った時から、よく似た顔だと思っていた。Zは自身と鏡写しなAの才能を、密かに羨んでいたのだ。自分のような落ちこぼれではなく、溢れ出る殺気で周囲の人間を威圧するようなAこそが卒業試験を突破できる逸材である。そう本気で考えていた。返り血に染まった短い白髪を直視しても、その想いは揺るがない。

「……逆だ」
「えっ……?」
「……俺は、暗殺者にはなれない」

 赤い瞳から放たれた視線が交錯する。あれだけ才能のある人間が、暗殺者になれない? Zは僅かに動揺しながら、その真意を問う。

「……自分の殺気を殺せないんだ。だから、さっきみたいに無警戒な相手しか狙えない。俺は、暗殺者失格だ」
「もしかして、さっきの僕の挑発聞いてた?」

 頷くAに反論しようとし、Zは黙る。彼にとっては詭弁のつもりだったが、殺気を消すことに関しては実際Zの右に出るものはいない。警戒している相手だろうが接近し、懐まで迫れる自負はあるのだ。

「……お前が残ってくれ。それで満足できる」
「いやいや、死ぬ気? 兄さんの方が才能あるのは事実だよ。それに……」

 それに、まだZは人を殺せないのだ。接近し、ナイフで斬りつけることはできる。だが、そこまでだ。決断的な最後の一線を、彼は未だ踏めずにいる。

 自分たちは2人とも不完全で、根本的な欠落は真逆だ。Zは思考し、一つの回答に行き着く。

「明日、迎えが来る。何人かの軍人が乗った船が島に来るんだ。なら、僕ら2人が乗れる“余裕”は作れるよね?」
「………?」
「組むんだよ、僕らで!」

 翌日、生存者を保護するために現れた某国の特殊部隊数名は、何者かによる襲撃で無惨な死体と化した。それに伴い国家主導の少年兵育成プログラムは凍結され、闇に葬られたのだ。
 生存者なしと報告されたサン・ベネド島の惨劇から半年、世界各地を渡り歩く白髪の少年兵が目撃されるようになる。紛争の傭兵から要人の暗殺までこなす彼らは、それぞれA《アズ》とZ《ゼア》と名乗って活動していた。

 生きるために、或いは自由を求めるために。どの国家にも属さないフリーランスの始末屋が最後に辿り着いたのは、とある大国の特別区である。スラム街を支配するマフィアのボスを殺すため、彼らはアジトへ突入したのだ。

「なァ、誰に頼まれた? 役人か? 麻薬カルテルの連中か?」
「……誰にも頼まれてないとしたら?」
「嘘を吐いてるか、相当なバカかのどっちかだろ。後者なら、俺ァそういうバカは好きだぜ?」

 狭い倉庫で自身を殺しに来た双子を拘束し、マフィアのボス——ドン・オルドは豪快に笑う。一方で、周囲を取り囲むオルドの部下たちは各々が武器を持ち、剣呑な雰囲気を崩さない。

「アンタらのこと、知ってるよ。その若さで凄腕なんだって? だがなァ、既に顔が割れてるなら対策は簡単なんだよ……」
「……サインでも書こうか? きっと、将来自慢できるよ!」
「おッ、いいねェ! じゃあサインしてもらおうか、“コレ”に!」

 オルドが取り出したのは、小切手の束だ。好きな額を書け、とばかりにそれを差し出すと、彼はニヤリと笑う。

「仕事の依頼だ。この街に来る厄介者を始末してくれ。それまでは、俺が用意した家に住めばいい。生きるのに苦労はしねぇし、この街から出なければ安全は保証してやる。俺のファミリーになれば良い席も用意してやるよ」
「……自由が欲しくなった場合は?」
「その時は、俺を殺せばいいさ。出来るもんならなァ!」

 破格の条件だった。今までのどの依頼よりも明確に安全が保障されているし、そもそも自分を殺そうとした相手を何の咎めもなく飼うのは厚遇がすぎる。何か裏があるのではないか? そうゼアは考え、アズの表情を伺う。

「……明らかに怪しいけど、どうする?」
「……俺は受ける。このまま殺されるよりは、仕事を受けて飼われた方がマシだろ?」
「それもそっか。潜伏することでアイツに対処できるようになってるかもしれないしね」
「……それに、俺たちが揃えば2度目の敗北は無い、だろ?」

 彼らは答えを決めた。隷属ではなく、対等の契約として。街を守るという大義名分で、彼ら2人の生存と自由を担保するために。

 淀んだスラムの空気を纏い、白髪の死神は街区を駆ける。
 欠落を補い、安寧を得る。そのために、彼らは自らの武器を錆びさせることは無いのだ。

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