インバネス・レイヴンは剣を抜かない
馬車道に蹄鉄の跡が刻まれ、点在する街灯の光は霧に隠れる。襤褸を纏った物乞いの老婆が空腹で倒れ、煙突掃除夫の少年は煤けた顔を拭うことなく路地を駆ける。
この街に、延いてはこの国に、かつての輝きはない。蒸気機関の発明で得をしたのは資産家達だけで、日陰に集う人々に押し付けられた貧しさはじわじわと国全体の首を絞めていた。
俺は手綱を握り、小さく唸る。厄介な仕事を引き受けてしまった。
眼前に迫る闇は、霧の中に確かな無数の眼光を映す。下賤な猛禽の目だ。狙いは、俺が運んでいる貨物だろう。
煌びやかな物を盗む『鴉』《クロウ》は、資産家だけでなく貧民さえ襲うようになった。奴らは人間の真似事でもするように徒党を組み、俺たちの食糧である穀物も狙うのだ。噂によれば、人間の死体さえ喰らう奴らもいるらしい。今、眼前にいる奴がそうでなければいいのだが。
黒い翼が視界を覆う。影めいた奴らの姿はすぐそこまで接近し、風を切る音が通り過ぎていく。貴重な食い扶持を、奪おうとしているのだ。
「頼めるか、旦那……?」
『——当然だ。奴らの事は、俺が一番よく理解している』
貨物を狙う一匹の鴉が、冷たい石畳に落ちた。幌の上で鎮座する何者かによって、払い落とされたのだ。
『……まったく、誇りも何も無いな』
貨物を守る用心棒には、国から剣を提げる許可が下りる。鴉はそれくらいの覚悟が必要な相手であり、俺も念の為に雇っていたのだ。
宵闇に溶ける漆黒のインバネスコートに、鉛を埋め込んだブーツ。雇った男は、提げた剣を抜こうとしない。ただ、重い質量の一撃で鴉を蹴り落とすだけだ。
ブーツに埋め込んだ鉛が、鴉の身体に特殊な跡を刻む。それは猛禽の足跡めいて細い、裂傷めいた傷だ。
『俺らが狙うのは、金持ちの宝であるべきだろ。違うか?』
報酬は二枚の金貨、もしくは煌びやかな宝石。俺がなけなしの金で雇った用心棒は、偉丈夫の身体に鴉《レイヴン》の頭を持っているのだ。
【続く】
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