都市の隠れ蓑と孤独、地方のセーフティネットと縛り

ども太郎です。
社外での事業作りのPJにて今日は仙台にきておる。
にしても仙台には人と店とがいっぱいある。

しばしば1500円2時間で引ける異世界転生ガチャではないかと思う。
利便性は段違いで、コンビニ、Uber,チェーン店、ユニクロなどユニバーサルサービスがバンバン入っていている。

さて、夜飯にふらりとやっている焼き鳥屋に入って、黙々と晩酌を堪能し、2000円払って40分ぐらいでサクッと出てきた。

皿を無言で出してくれる頑固そうなおっさん、無愛想なおばさんに最低限の注文を取ってもらう。だがそれがいい。焼き鳥はとても美味かった。

この地域、この店舗では僕は異邦人だ。
ずけずけと踏み込まれない、唯一のやりとりは焼き鳥を提供する、対価を払う、その関係性だけ。

それがふと自分が地域で感じている所属している安心感と対極でありながら、心地よさがあったので筆をとる。

都市の隠れ蓑と孤独

都市はいわゆる「お構いなし」の世界だ。
単純化すれば、関係性はサービスの提供者⇔受給者でそれ以上でもそれ以下でもない。
そこには個人のパーソナリティは抜き取った経済活動体という機能に収支する。
早い話が「お前は何を生み出せんの?」「お前はいくら払えんの?」という世界。
金を払える限りはサービス提供⇔教授というその時限りの関係性を結べる。
金さえあれば、あらゆることが楽に進むのだ。

都市はそういう意味でパーソナリティをごく一部のみに出せばよく、あとは機能だけで入ればいいので、隠れ蓑のようになる。

だが、しばしば言われるのはそれが孤独を引き落とすということ。
経済が発達してあらゆる隙間をサービスで埋めるようになったからこそ、一人で生きれるようになった「ぽい」時代になっている。
FinanceのFin は「終わらせる」「チャラにする」という意味を持つ点は非常に腑に落ちる。
お隣さんとの交流もなくなりつつあるなど、自分の所属欲がどこにも満たされてないことによる自己の中での不和。
どこまでも自由でいられる分、それは鎖のつながれてない野良犬同様である。

地方のセーフティネットと縛り

対して地方・地域ではどうだろう。
サービス提供者と受給者はイコール生活者との関係性も入り込んでくる。
いわゆる顔の見える消費だ。
誰々さんところの野菜、誰々さんにこの仕事、相談してみよう、なんて。

地方はパーソナリティが生産活動、消費活動に占める割合が大きい。
これは時にセーフティネットになる。

純粋なマネー経済活動100%だけでは成り立たない世界、地域の資源はコモンズと捉えられ、少しずつギブをしあったその余剰を時にこぼれ落ちてしまいそうな人を支えるために利活用でいるのが、地方の特徴。

別に何にも産んでなくたって、ただそこにある、所属している、それだけでなんとかなったりするものだ。

一方でこれは「自分を縛り付ける鎖」となる。
都市では行える自分の利益追従は時に全体の利益相反となる。
とりすぎは諌められ、取らなすぎは貧ずる。
中でも貨幣で買えない信用というものこそがものをいう。
一度信用を壊してしまうと、コモンズへのアクセスおろか純粋な経済活動にも支障をきたし、もはやその地域で生きることができないというリスクもはらんでいる。

首輪の繋がれたワンコは家族に所属できるが、自由にどこまでも行けるわけではない。
この縛りは時に自分をがんじがらめにしうるので、息苦しさを覚えることもあろう。

都市の隠れ蓑と孤独、地方のセーフティーネットと縛り。

都市人がたまに田舎に行って、「機能としての人」を1mmも入り込ませない人間と人間の接し合いに触れ、「あったけぇ〜」と感動するのあるある。

ティーンエイジャーが「縛り」である閉鎖的人間関係からの脱却と刺激を求め、「オラさ東京いくだ」もまたあるある。

隣の芝は青く見えるだろうし、人はホメオスタシスを働かせるべく、ある価値観や要素一辺倒になった時、対局概念に対して憧憬を覚えるのだろう。

仮に移ったら移ったでまた一辺倒になり、あったかさと刺激と相互を求めてしまうのだろう。

ならば、己の中で調和をしていくのみ。
あぁ悲しいかな。楽園はどこにもない。しかし楽園と思えるよう暮らしを自らで手作りしていく余地があることの裏返しでもある。
生活は続く。

お読みいただきありがとうございます。

この文章はあくまで書き散らしなだけで、全く正当性を保証するものでもないし、包括的なわけでもない。
ただ、この文章を読んでくれた人が自分の今いる概念に囚われていたなとハッとして、別の世界もあるんだということを認知してくれるきっかけになれば幸いだ。
幸あれ。

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