光だけがある
昔から、中原中也が好きだ。霊性に溢れたその詩の内奥には、人間の魂を深く見つめる彼の眼差しがある。中也の詩や詩論等を読むと、彼が非常に精緻かつ深く「詩」というものの本質を考えているのが分かると同時に、詩にとって、いかに「直感的把握」というものが大切であるかということを改めて強く実感する。
まず直感がある。それは霊感、すなわちインスピレーションと言い換えてもいい。中也は詩作において、「名辞以前の世界」を表現しようとしたという。例えば、陽の沈んだ空を眺めたり、道端に咲いている小さな花を見つけたりしたときなどに感じる言葉にならない思い。そうした、ある瞬間に垣間見える「永遠性」や、この世界の真実というものに触れたときの感動をいかに言葉にするか。最初の感動を押し込めてしまうような、余計なレトリックから自由になって、瞬間のなかにある永遠性をそのまま表現するとき、詩は詩として生き始める。もっと言えば、それは詩や散文などに限らず、すべての芸術表現についても同じことが言えるのではないかと思う。中也は生涯をかけて、この世界の奥にある真実というものを見つめていたのではないか。
ゲーテは「人生は彩られた影の上にある」と述べたが、この世界はまさに「影」であって、仮にそう現れている世界であるのだと思う。影は光を照らせば消える。つまり、光しかないのだ。すなわち、本当に実在するのは、すべてが善であり、あらゆるものが調和した世界だけであるということ。目で見える世界というものは、影に過ぎない。だから、目で見える世界がすべてと思うと、物事の本質を見誤ることになる。その最たるものは、人間は動物であり、物質に過ぎないとする唯物論であろう。この考え方の行き着く先には、草木の一本も生えない荒涼とした砂漠しかないように思える。
影に捉われることなく、光に心を向ける。人間は精神的な存在であり、この世界のすべては心が創り出す。だからこそ詩が生まれ、人間には詩が必要なのだ。つまりは、人間そのものがひとつの詩なのだと僕は思っている。人間は精神的存在であり、心がすべてを創り出すのだと気がついたとき、自分のなかにある「詩」がきっと大きく輝き出すことだろう。