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終わりの夏 2/10

 白鷺が、舞っていた。

 それ自体、取り立てていうほどのことでもないのに、今日にかぎって、どういうわけか、自分たちが子どものときに見た鳥と、それが同じ鳥のように、しきりと思われるのだった。種類が同じというのではない、個体として同一だといいたいのである。そんなはずはない、たくさんの水鳥を見てきたはずだと、自身に道理を聞かせてみたところで詮ないことで、鳥といっては、同じ個体がただひとつ、とうの昔から、ずっとそばにいるばかりだったのだと、ほとんど啓示のように、篤子は思うのだった。
 子どもの時分、ひとり遊びの夢中からふいに解き放たれて、慌てて顔を上げれば、あたりはすっかり暮れなずんでいて、間近の青田から、ひょっこり首を伸ばしてこちらをうかがう白い鳥と目が合う。もう何時間とそうやって自分を見ていた、自分はそうやって見られていたと思うと、とたんに全身総毛立つ、なぜといって、このがこれ以上長引けば、人語でもって話しかけられるやも知れぬという、物怪もののけじみた気配に満ち満ちていたから。

 そんな馬鹿な。
 おしなべて鳥は、十年も生きられまいと、篤子は自分の思いつきを即座に振り払う。そのじつ、鳥は、地を這う虫どもをいらうのに時を忘れて没頭する幼児の篤子を見ていたし、朝夕とこの道を通う少女の篤子を空から見ていたのだし、トラックの荷台に荷を詰め込んで、山深い嫁ぎ先へ運ばれてゆく女ざかりの篤子を、すっかり見えなくなるまで、鉄塔の突端から、ずっと見ていた。

 篤子は、麦藁帽子の鍔に手をやり、空を仰いで鳥を見ていた。
 鳥もまた、篤子を見ていた。
 駅のホームに降り立ったときから、篤子を見ていた。改札を出た篤子は、ピンク色の小さなキャリーケースを引きながら、躊躇なく、彼女のためにあつらえたように目の前に停車した黒塗りのタクシーに乗り込んだ。ターミナルを半周したタクシーは、かつての賑わいの面影をいささかもとどめない、仕舞屋しもたやの連なる通りを抜けていく。信号待ちのさい、歩道を挟んですぐそこに、やはり似たような間口の看板建築の仕舞屋があって、かしこの銅板張りはすっかり青錆びて、真鍮の浮き出し文字が、「……理髪店」と謳って鈍く輝いていた。一面ガラスに「テナント募集」の貼り紙がなされ、なかは居抜きで荒涼として薄暗く、大きなスズメバチの巣が、備えつけの陳列棚に放擲されてあるのが車道からも認められたが、篤子は一瞥すらしなかった。
 タクシーは県道に差しかかり、一気にスピードを上げた。上下線とも、夏の日盛りに、車の往来はまばらだった。広大な駐車場を擁する大型店舗の並びも、やがて間遠になり、見渡す限りの田園風景だった。
 県道は、まっすぐ海まで田園を貫いていた。一面さざなみ立って光を散らす、広大な水の溜まりが、田の緑の広がりを切り取ったように見えていて、県道はそのきわをかすめていく。地元でもっぱら蝗池と呼ばれた溜池だった。少女時代の篤子は、よく父や兄に連れられて、ここで釣り糸を垂らしたものだった。近年護岸工事がなされ、コンクリートで矩形に整えられたそれは、篤子の往時の記憶と結びつきようもなかった。篤子は、だから、ここでも窓外に一瞥もくれない。
 なんの目印もないようなところで、タクシーは停車する。鍔広の麦藁帽子に、白の甲表のサンダルを履き、黒字に白の水玉散らした化繊のワンピースを着た三十女をひとり残して、タクシーは走り去る。農道は舗装路で、かろうじて二台の車がすれ違えるだけの幅はあるが、両端は蓋なしの側溝に落ち込んで、剣呑といえば剣呑だった。家の門前までタクシーで乗りつけてもよかったが、ここより歩いて十五分ほどの道のりを、青田に囲まれて、風を感じながらぶらぶら行くことを、篤子は希望した。炎天下に晒された途端、自身の酔狂に思わず自嘲して、なにとはなしに空を仰ぎ見た。

 白鷺が、舞っている。

 もう少し高みを飛んでいたなら、こちらとは没交渉の、単なる一風景として、気にも留めなかっただろう。それが、あの絶妙な高み(低み)で、広げた翼に風をはらみ、宙にとどまって見下ろすようなのだから、なにやら言問いたげで、おのずと篤子は気を引かれた。その鳥と、幼児の時分に対面したことがあるような気が、しきりとしていた。あの鳥とともに、これまでの自分はあったのだとさえ思いかかって、その刹那、鳥は地をゆく者には感知し得ない大きな風をとらえたもので、みるみる遥か高みへ拉し去られ、たちまち篤子の夢想の埒外となった。
 行手が陽炎かげろうに揺れていた。揺らぎのなかに、大勢の人間が見えるような気がした。陽炎の立つあたりが十字路で、それを左に曲がると、彼女の生家はもう目と鼻の先だった。
 その十字路を、かつて兄は、世界の中心、と呼んだ。そこに立ち、ぐるりを見渡しながら、俺ら、いま、世界の中心に立ってる、よくそういった。そしていつだったか、クロスロード伝説について篤子に語って聞かせた。
「……男は、十字路の悪魔に魂を売った。魂と引き換えに、無二の声と、無二のギターテクニックとを手に入れた。人はのちに、彼をブルースの神様と呼んだ。二十九曲を吹き込んで、男は死んだ。二十七歳だった」
 そしていった。
「こんな田舎の十字路にこそ、悪魔は似つかわしい。あっこよ、魂と引き換えになんでもくれてやると、悪魔に持ちかけられたなら、おまえならどうするよ」
 あのとき自分は、なんと答えたものだったか。兄とは十も歳が離れていた。あのときの兄が高校生なら、自分は小学生だった。それも低学年の。早く死ぬのはいやだ、とでもいっただろうか。
「どうするだろうねえ」
 思わずそう口から漏れていた。
 ふと見上げると、行手に白い鳥が立っていた。十字路の角の青田の茂みから、抜きん出て高く、細い首をそびやかし、じっとこちらをうかがっている。さっきの白鷺だろうかと、篤子はいぶかった。




「お父さん」
 家の門前から、篤子は呼びかけた。門といって、門扉などなく、車幅より広い間隔で大谷石の門柱が立っている。草を刈ったばかりだからだろう、あたりは草いきれに満ちていた。
 呼びかけられて、征郎は振り返らなかった。庭に立ち、屋敷林の高みを見やって、その背中はしんと静まり返っている。ふたたび篤子は、さっきより大きな声で呼びかける。耳が遠くなったのか。しかしまだ七十手前である。母から聞いた奇行のことが、ちらと頭を掠めた。
 呼ばれてというより、なんとなく気配を感じてというように、征郎は振り返った。振り返ったその人は、篤子の知らない老人だった。「おおお」と、うめくとも驚くとも知れぬ声を上げ、老眼鏡の奥の目をみはった。その狼狽は、手に取るように知れた。名を告げようとして、篤子はしばし待った。
「あっこ」
 ようやく認めて破顔すると、見知らぬ老人と見えたその人は、たちまち篤子のよく知る父の相貌を取り戻した。年も相応になった。
「なんだ、駅に着いたら、連絡するんでなかったのか。車、出したものを」
「うん。ちょうどタクシー来てたし。それに、ちょっと、歩きたかったから。義姉ねえさんたち、もう来てる?」
「夕方になるって」
「夕方。なんでまた、そんな遅いん」
「わかんないけど」
 征郎は篤子からピンクのキャリーケースを引き取った。玄関の戸を開いて、なかへ篤子の到着を知らせる。蚊遣りの匂いが立ち込めていた。じき弓子の足音が立って、お帰りい、と明るい声で出迎えた。土間に立つ篤子となにやら言葉を交わし始め、そのかんに、玄関の戸はゆっくり閉じられた。

 門といって、門扉など、初めからない。門柱からはまきの生垣が続いて、屋敷林のある西側を除く家の三方を囲った。生垣の葉叢に片手を差し入れると、驚いた翠のアマガエルらが、わらわら飛び出して、真下の用水路に落ちた。生垣に沿って水路が切られ、門の前にだけ蓋がしてある。草茫々のなかに水は浅く澱んで、ところどころ黒々とした泥土が洲になって露呈して、いまやひっきりなしにトノサマガエルが鳴いていた。暗がりへ顔を覗かせると、しんと静まり返る。しばらく息を殺して待つと、体色が泥に同化して姿は見えないながら、その目にぬらりと溜められた光が、そこかしこでちらちら動く。やがて、気の早いのが一匹、二匹、と鳴き出して、合唱は再開される。かえって暗がりに動きのあるのはオオタニシで、これが洲の上を、案外な速さで行き交っている。水路の内壁に、着色料たっぷりの、甘い菓子のような桃色の粒の塊が方々なすりつけてあったが、それは彼らの産む卵だった。
 往時の用水路は、一年じゅう山の湧水がせせらいで、水底にはカワニナが潜み、梅雨入り前には、無数のホタルが飛び交ったとは、父と母のする繰り言のような思い出話である。おまえらもうんと小さいとき蛍狩をしたものだと、帰省するたびいわれるが、兄も妹も覚えはなかった。
 日は中天を越え、セミたちは、いよいよさかんにすだいていた。先月征郎が伐らせた屋敷林の片側は、半身だけ枝打ちされた樹々の幹が日をまともに受けて、戦争の傷跡めいた、無惨な姿を晒していた。幅一メートルほどの帯状に空いた緩衝地帯には、木屑葉屑に埋もれて、クヌギとコナラの根株の切り口が、いまだに濡れたように白かった。樹齢百年では利くまい。人のするあまたの無慈悲のうち、わけても樹を伐るに勝るそれもあるまい。頭上に降り注ぐセミの大音声には、アブラゼミ、ミンミンゼミのほか、いつかニーニーゼミも加わり、屋敷林のそう遠くない終焉を告げる、不吉な躁の響きが紛れた。

 玄関の扉が開かれて、女たちの声が立った。篤子も弓子も、野良着に着替えていた。軍手もつけている。征郎があとから続いて、家の裏手に案内した。
「蛇、まだいるの?」
 篤子が怯えて訊いた。
「いるいる。うちのヌシだもの。祠の裏にいる。挨拶してくるか」
「やめてよ。わたし、やだよ。蛇出るなら、手伝わない」
「大丈夫。向こうからはやって来ないから。わたしが祠のほうをやるから、おまえはここらをおやり」
 女たちは腰を屈めると、草刈機で刈りっぱなしになった草の屑を拾い拾いして、隅の焼却炉へ放っていく。征郎は腰痛持ちで、屈んで拾うの動作ができない。やがて祠より向こうで草刈機が稼働して、周囲の虫の音も鳥の音も風の音も、なにもかもがエンジン音に塗りつぶされる。
 それ幸いに、篤子が弓子の耳元で、大声でいった。
「お父さん、このごろは大丈夫なの?」
「え?」
「お父さん。大丈夫?」
「大丈夫よ。どうして」
「だって、奇行がこのごろ目立つって」
「え?」
「さっきもぼーっと立ってた」
「ああ」
「わたし来たとき、樹の上のほうを、じっと見てた」
「ああ。イクが来てるって」
「え?」
「イクが、いるんだって」
「イク?」
 弓子はあきれたように笑うと、片手を二、三度顔の前で払い、首を横に振りながら、また祠のほうへ向かった。篤子は祠のほうへは、蛇が怖くてついていかれなかった。刈り残しの草はそう多くはなくて、じき草刈機を袈裟懸けにした征郎が戻ってきた。焼却炉に火を入れると、あとはよろしく、といって表の庭へまわった。奥の物置へ草刈機を仕舞うと、またしばらく屋敷林の樹冠を見やってから、家のなかへ入った。
「イクって、なに?」
 篤子が弓子に訊いている。
「茶器とか仏具とかなくなると、イクの仕業だって、ここらではいったろ」
「ああ、いったねえ。懐かし。でも、あれ、このへんに流れてきたホームレスのことじゃなかったの? 屋敷林とか、鎮守の森とか、点々と住処すみかを変えて、寒くなるといなくなる。それをみんなして、イクだイクだと化け物みたいに囃して、わたしもよおくお母さんに脅されたの、覚えてる。悪さしてると、イクのとこ、連れてくさよって」
「そうだね」
「あんな樹の高いところに、イクはいないやろ」
「でも、ほら、ここらでは、風もないのに木っ葉が揺れてたり草が震えてたりすると、見えないものがそこに来てるというでしょう」
「だからそれ、イクやない。お父さんの思い違いでしょ」
 じゃあ、なに、と問われることを篤子は恐れた。しかし弓子は訊かない。この暗黙の呼吸が、ふたりの共犯関係を仄めかすようだった。
 イクの話はそこで立ち消えになった。炉の蓋を閉めると、二人は表へまわった。なにとはなしに屋敷林の上を見やる。見やってふたりとも、なにもいわない。いうことがない。玄関へ行きかかって、篤子が素っ頓狂な声を上げた。
「なに、あれ。豚の腎臓?」
 水場へ小走りして、蛇口から飴のように細く伸びた水を受ける木桶のなかを、不思議そうに覗いた。
「馬鹿なことをいって。アケビだろうが」
 弓子は笑った。
「こんな大きなアケビ、ここらにまだ、あるんやねえ。こんだけ大きいと、可食部も、それなりやんなあ」
「それでも未熟果だから、甘いところは少ししかないよ。皮の内側の白い分厚いところは、赤味噌に漬けてから素揚げにして、いい肴になる」
「そっか。ほな、夜、いただこ」
「それにしても、あっこ」
「なに」
「ことば、こっちのより、向こうのが、自然に出るねえ。里に帰っても、嫁ぎ先のことばが出るというのは、それなりに気が張ってる証拠だね。今回はゆっくりしていきな」
「そうもいかんのよ。わたし、明後日には帰るから」
「あら、そんな。どうして」
「この時期、山の旅館は、避暑で稼ぎどきなんよ。それを女将の立場でありながら、無理いって、三日だけ暇をもらったの。子どもたちを連れて来んかったのも、そういうわけ。ごめんね。次こそは、子どもたち連れて、ゆっくりしていくからさ。いついつとは、約束できないけど」
「しかし、おまえが老舗旅館の女将とはねえ」
「そうだ、この冬こそ、お父さんとこっちにいらっしゃいよ。たんとご馳走するから。猪鍋を、ぜひ食べてほしいんよ」
 見ていると、木桶の野菜はどれもひとところにはとどまらず、ナスが垂水の真下に流れてきて、くるんくるんと回転すると、それがじき交代して、トマト、アケビ、キュウリ、小玉スイカ……と、代わるがわる水浴びを戯れるかに見えた。
「無理させて、ごめんなさいね」
 弓子はいった。
「ううん。大丈夫。今度のことは、虫が知らせたというか。だって奏衣かなえさんたち、二日しかいないんでしょ。それ、なにかあるよ」
「なにかあるって」
「わからんけど」
 なにがあるとは、迂闊なことはいわれなかった。母も同じだったろう。またなにが心配といって、ほかでもない、父さんと母さんが心配なのだとも、篤子はいわれなかった。
 篤子は軍手を外すと、両の手を木桶の水へ浸した。
「ひやこい、と向こうではいうんだよ。ほんと、うちの水は、ひやこいねえ」
 篤子は、アケビの実を両手にひとつずつ取ると、それを顔の横に掲げて、にんまりして見せた。
「血は争えないねえ」
 朝に自分もそれをしたのだと心につぶやいて、弓子は苦笑した。
 母娘の庭でのやり取りの一部始終を、征郎は居間に立って見ていた。そのことを、篤子も弓子も知らない。庭からは、逆光で、征郎の姿は見えなかった。

 クヌギは死んではいなかった。
 切株の断面を撫ぜる手に、命の脈動がかすかに伝わった。次の春にはひこばえが生え、夏には青々とした束になり、やがてうちのひとつが元の切株を土台にして幹を太くしていき、数年もすれば、ドングリをつける立派な樹になる。それをいつか、まぶしいように見上げるであろう征郎の姿が、ありありと見えるようだった。
 隣家の庭は、夏の盛りというのに、草ひとつ生えぬ、あいかわらずの裸地だった。先の住人の理髪師は、数年の試行錯誤の末、芝を根付かせた。四方を青田に囲われるのに芝生とは、屋上屋を架すに似た愚行にほかならなかったが、理髪師のいじましい努力は、反感を持たれなかった。新しい住人は、理髪師の芝生を遺産として受け継ぐことなく、いったん隈なく土に返し、いまなお庭については、裸地のまま放置している。大がかりな工事の入る気配を示しながら、何ヶ月とそのままになっていた。
 土を露わにしながら、夏の盛りに草ひとつ生えないとは、周囲の青田の比較においても、異様な光景といえた。人造大理石を全面に張った黒いキューブ状の現代的な建築物は、こちら向きの壁面に、おそらくは階ごとに小さな窓がひとつずつ穿たれて、日没間際になると、律儀に明かりが灯った。それにしては、人の気配が微塵も漏れなかった。征郎も弓子も、いまだに新しい隣人の姿形を知らない。声も聞かない。庭を手入れする人間など、ついぞ見かけたこともなかった。
 おおかた除草剤を撒いて済ましているのだろう。だとすれば、雨降るごとにこちらの屋敷林まで染み出して、樹々は毒水を、葉の一枚いちまいの隅々にまで、行き渡らせることになる。葉を喰らい、樹液を舐め、蜜を吸う鳥獣とりけものたち、虫たちのあまねくに、毒はまわる。やがて地下水が汚染され、人間をも蝕んでいく。
 しかし毒水のことは、いまに始まった話ではなかった。このあたりで、農薬を用いない農家など、一軒もないのである。そのせいで、用水路にカワニナが、そしてホタルが棲まなくなったのではなかったか。山から水を引かなくなったせいばかりともいえなかった。田圃を覗いても、もはやゲンゴロウもタガメもミズカマキリも、姿を消して久しかった。
 西の端にわだかまる積雲の底が、赤く燃えるようだった。日の入り間際の残光を背後からまともに受けて、黒いキューブの家は、長い影を地面に引いて、さながら死にゆく世界の墓碑のようである。セミの大音声は、いつかヒグラシとツクツクボウシのそれに取って代わられていた。
 毒水がこの土地に行き渡るとは、なんとも悩ましかった。レイチェル某みたいなこといって、なにをいまさらと自嘲されもするが、この悩ましさ切実さはどうあってもほんもので、持て余してクヌギの切り株から金輪際離れられそうにない。この悩ましさ切実さから解放されるために、みずから雨を演じ、あたり一帯に降り注いでみないではいられなかった。思うが早いか、ときならぬ雨となり、青い稲穂を揺らす、樹々の葉叢をさざめかす、カエルらの頭を打ってぬるりと顔を洗い、顎より滴り落ちる。やがて草に触れ、茎を伝い、土に達する。草いきれが横溢する。吸われ、染み渡り、拡散し、馴染んでいく。ともに浸透する毒は、土に濾過される、吸着される、あるいは細菌に取り巻かれて分解される。水はさらに、さらに、土中深く、滲んでいく。染み渡るほどに、透き通っていく。浄化されていく。純化されていく。そう感じられる。感じられることと、じっさいにそうであることはぜんぜん違うのに、もはやそこに区別はない。地中深くは静寂が支配している。深いは暗く、暗いは寒い。暗さ、寒さにすっかり同化して、ここで永遠に安らいでいよう、無になるまで浄化され尽くそうとせつに願っている。願いながら、染み渡りはいったん始まったらやむことはなく、土に濾過されない毒もある、土に吸着されない毒もある、触れるや否やことごとく細菌の死滅する毒がある。つまるところ毒として純化するばかりなのかもしれないと思いついて、雨になるなど、するでなかったといまさら後悔されてもあとの祭り、落ちてゆく、落ちてゆく、やまず落ちてゆく、取りすがるよすがはなにもなく、消えかかる意識のなかで「滴る」の一語が浮かんで、浮かぶと同時に滴るそのものになっている。滴るは、ついに地下水の層に達する。泥土の涼やかな匂いがした。涼やかな匂いはまた、濃縮された毒の香り。
 地下水は澱んでいた。滴るは滴り落ちて、地下水を泳ぐになる。泳ぐになるなどまどろっこしい、いっそ地下水になればよいと思いついて地下水になると、見捨てられてはや百年の孤独が募った。この地下水はどこにも通じておらず、ふたたび日の目を見る機会は永遠に奪われていた。なぜなら井戸という井戸が封じられていたから。封じられるは、息苦しいだった。それにしても我が家の地下水は、どこから来るのか。秘密は泥土の層だ。やがて悟る。泥土の層の下にまた、深いが続いていると。深いよりさらに深く、その深いよりさらに深い深いに達すれば、また別の地下水の層がある。それよりさらに深いには、また別の地下水が。人類発祥よりはるか昔に遡って降った雨が、そこには閉じ込められている。子を亡くしたナウマンゾウの涙の一滴でも、紛れているかもしれない。空を覆う業火に逃げ惑うキョウリュウたちの恐怖が、結晶化しているかもしれない。太古のメタセコイアの森の峻厳が、清らに転生し、そこかしこに戯れているかもしれない。
 これより深みへはゆけぬ。禁じられた領域は、そこかしこに結界を張るのだ。轟音を聞きつけて馳せ参ずれば、それは気も遠くなるような測り知れない深みから、太古の水を吸い上げる配管で、配管のなかを充満する水に躊躇なく転化すると、上へ上へ目指して泳いでいく、いつか配管は垂直方向から水平方向に向きを変え、浄水場を経た川の水と合流して水道管に接続し、十数キロの小旅行の果てに我が家の庭の水場を迷いなく探り当てる。栓はかすかに開かれて、蛇口から水が、限界まで引き伸ばされた水飴のように細く滴り落ちている。垂水の下には木桶に浸かったナスにトマトにキュウリにアケビに小玉スイカがあり、人目を盗んで囁き交わしている。今年の精霊馬は、おまえか、おまえか、おまえか? もう彼らは来た? 来てる? まだ? 来たか? 交代で垂水の下に流れていっては、くるんくるんと水の勢いで転がされるのを戯れて、ひやこい、ひやこいと覚えたての人間のことばを飽きもせず囃して悦んで、いっしょになってひやこいひやこいいいながら無心にしぶいていると、じき弓子が来て蛇口の栓を締め、野菜たちを笊に移し替え、木桶を傾がせて水を庭に捨て始めた。ふたたび地面に水として吸われそうになり、草陰に潜んでいたショウリョウバッタにすんでのところで憑依する。

 門前に車の音がして、木桶の水を庭に捨てていた弓子は、顔を上げた。紺のカローラフィールダーがエンジンを唸らせながら用水路の蓋で溝になる敷地の境目に乗り上げて、乗り上げると同時にエンストした。奏衣の車は、いまどき珍しいマニュアル車だった。エンジンがふたたび始動して、運転席の窓が下りると、顔を覗かせた奏衣は、声を張り上げた。
「遅くなりました!」
 いかにも、日はとうに落ち、あたりは薄暮の紫に、なにもかも染まっていた。弓子は立ち上がると、前掛けで両手を拭きながら、いそいそと車に寄った。
「あらあら、奏衣さん。やっと来た。待ちあぐねてましたよ」
「すみません。途中、迷ってしまって」
「そんなことだろうと思いましたよ。さあさ、車、もっとなかへお入れなさいな。屋敷林のほうへ寄せて停めてかまわないから」
「すみません、ほんとうに」
 後部座席の窓が開いて、眼鏡男子が挨拶する。
「こんにちは」
 その後ろから、女の子がふたり、暗がりで姿は見えないながら、続けて挨拶をした。
「よく来た、よく来た」
 弓子が目を細める。すげえ、と男の子が声を潜めていい、なになにと女の子らが身を乗り出すのへ、
「いま、こんなでっかいバッタがそこを跳ねた」
 といって、両の人差し指の幅でその体長を大袈裟に示して、自慢した。







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