ワダカマリン
家や車のローンの払いだけでもたいへんなのに、ここにきて義父の介護費と長男の塾代が加わり、妻は仕事に復帰する必要を切実に感じていた。しかしそうなると末の未就学児をどうするか、保育園に預けるのもなんだかで、自身踏ん切りがつかないのでもある。あと一年、いやあと三年、と誰にともなく我慢の期間を口にして、そのあとの非難の矛先が夫の自分に向くようで、卓爾は居心地が悪い。
じき妻は体調を崩して、床に伏せるようになった。その晩も、帰宅した卓爾を小学生の長男と長女が玄関先まで出迎えて、「ママは」と問うと、困惑顔して「寝てる」と答えた。今時分は寝床にいてしかるべき時刻だが、子どもたちは食事すらまだだと言った。未就学児も幼稚園のスモックを着たままである。夫婦の寝室を覗いて、大丈夫かと問うと、息も絶え絶えな声で、大丈夫、と答えた。そうして起き出した妻の顔面は蒼白だった。足元もおぼつかない。
「救急車を、呼ぼう」
「やめて、みっともないから。大丈夫なの、吐けば治るやつだから」
台所に立とうとするので、無理矢理食卓につかせる。俺が作るから、と冷蔵庫を開けるとこれがカラで、米櫃にも米はなく、朝のパンさえ切らしている。
「さっき、ママが全部食べてしまった」
長女が言った。
「え? 全部食べた?」
「肉も野菜も、全部ナマのままいっちゃったんだ。お米だって、炊かないまま丸呑みしたからね」
長男が自分のした快挙であるかのようにして言い、この子の癖で右手の親指を顔の前に立てると、妻が条件反射のように、うなだれたまま、右手を上げてほぼ同時に親指を突き立てた。
「そんな、大丈夫なわけない。今すぐ病院だ」
「大丈夫。わたしは大丈夫なんだって!」
そう言うと、妻は食卓を両手でバンっと叩いた。ハタから見ると泥酔しているように見えただろう。
「それでは、とりあえず何か食べる物を買ってくる」
「それも、大丈夫。もうすぐなんだから」
「何が?」
「来た!」
すると妻は立ち上がってその勢いで椅子は後ろざまに倒れ、前屈みになって食卓のへりをつかむと、魔物か何かに取り憑かれたような声を出しながら、その場で嘔吐しにかかった。卓爾がトイレへ連れて行こうとするのを激しく首を振って拒み、子どもたちが腰に取りついて、声を上げて泣き始めた。狼狽える夫、せめて吐瀉物を何かに受け留めなければと目についた大皿を棚から取って妻の顔の前に滑り込ませると、その直後、おろおろおろおろ……と何かを吐き出した。
それは我々のイメージするゾル状の何かではなかった。黄色みがかったぷるんとしたもので、隅田川のほとりにあるアサヒビールの本社屋上に置かれた金のオブジェそっくりな、火球の形をしていた。鱸の成魚くらいはある大きさで、これが大皿の上で暴れた。
「生きてる!」
卓爾が飛び退くのへ、
「逃しちゃ、ダメよ!」
言いながら、妻は床に倒れ込んだ。卓爾は意を決してつかみかかった。両手のなかでそれは激しくもがいた。
「まずは、洗うのよ!」
長女が言い、これを洗うのか……とゲンナリしながらシンクに持っていき、蛇口を捻って勢いよく水を出す。手のひらでこすり洗ううち、それは次第におとなしくなった。
「今度はさばいて炒めるんだよ!」
「なんだ、おまえたち、初めてじゃないの?」
「それ、おいしいの」
と末の子どもが指をしゃぶりながら言った。
「これを、食うのか?」
「食べる!」
子どもたちが口をそろえて叫んだ。
「味付けは?」
すると妻が床に倒れたまま今にも消え入りそうな声で、
「バターと……醤油と……ニンニク……なら……たいがいのものは……イケる」
そう言って親指を突き立てた右手を力なくかざした。
頭から尻尾にかけて包丁で輪切りにしていくが、器官らしいものはなく、なかも表面と同じ薄い卵色一色である。かまぼこを切るようなものだから、こんな楽なこともないと手慣れない卓爾が結構な要領の良さでことを運んでいく。熱したフライパンに胡麻油を引き、ジャッとそれらをあけたら、醤油を垂らして、バターの一欠片を投入して全体に絡めていく。なんとも食欲を誘う匂いが充満する。これはなんだ。卓爾がついぞ嗅いだことのない匂いだった。この世に究極の食べ物があるとすれば、こんな匂いだろうと卓爾はふと陶然となる。
仕上げにチューブ入りのニンニクを加え、塩と胡椒をひとつまみ振り、銘々の皿に取り分けていく。
「付け合わせも何もないが……」
妻はいつの間にか食卓についていて、顔色も回復している。スーツを着たままの夫がフライパンから炒め物を取り分けるのを、なんともおかしいとくるくる笑った。
「君、大丈夫なのか」
「ええ、もう、すっかり」
「よかったね、ママ!」
さあ、それではいただきましょうかとなって、家族は隣りの者の手を取り合って、晩餐前のお祈りを捧げる。
「いただきます!」
言うが早いか、子どもたちは箸も使わず手でつかんで口に押し込んだ。おいおい、行儀の悪い……と注意しようとして妻のほうをうかがうと、妻はそんな子どもたちの姿を愛おしそうに眺めている。
「あなたも、早く召し上がって」
自分が口をつけるまで妻は何も口にしないのを知っている卓爾は、ええいままよとひとひらを箸に摘んで口に放り込んだ。
「うまい!」
思わず卓爾はのけぞった。
「こりゃ、何なんだ?」
「ワダカマリンです」
妻は言った。
その日、社長の機嫌はすこぶる悪かった。あらゆる企画が言下に却下され、これでは早々にこの会社は潰れるとまで言った。とはいえ、現状利益の150%を実現する新企画など、そう簡単に生まれるわけもなかった。のちの噂では、専務と常務が密かに株の買い占めをやって、二人の合計保有率がついに社長のそれを上回ったのを前日社長は知ったらしかった。
会議が進むにつれ、社長の顔色が次第に蒼白になった。上体が前後左右に揺れ、具合が悪いのは明らかで、専務と常務が両脇から支え、早く、君、救急車、と部長へ怒鳴るのへ、
「かまわん! この裏切り者が」
と一喝して社長は腕を振りほどいた。
一同やむなく席に着く。
IT開発室の室長のプレゼンがしまいかかるタイミングで、社長はやおら立ち上がり、机の縁に手をつくや、前屈みにいきんで、おろおろおろおろ……と嘔吐した。
それはよくあるゾル状の吐瀉物ではなく、ぴちぴちとのたうち回る火球状の柔らかな物体で、あたかも社長の口から立ちのぼるエクトプラズムのようだったが、ぷるんと弾かれ弧を描いて宙を舞い、ロの字に組まれた会議卓の、ちょうど社長のトイメンにいた卓爾の机上にびたんと落下した。
卓爾が唖然としていると、
「君、何をボーッとしてるのかね!」
常務が叱咤した。
とりあえずそれを卓爾が抱え込むと、それでよろしいの合図なのか、深々と頷いた。
「で、君、それをどうするつもりかね」
常務はどうやら卓爾に尋ねたようである。一同の視線が卓爾に集まる。
「あの、その……バターに……醤油に……ニンニクを少々……それなら、大概のものはイケるかと」
すると常務は、にっと笑って、右手の親指を顔の前に突き立てた。見ると、会議室にいる面々すべてが、こちらを向いていいねポーズをして破顔している。
了
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