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眠れる女 #3/6

玄関の鍵はかかっていたのだから女がまだ部屋にいるのは考えてみれば当たり前のことだがれいの寝姿を見るまで安心できなかった。突然現れたのだから突然消えても不思議はない。しかし女はオレが寝室に使っている洋間の隣の和室に布団を敷いて昨日の朝に見たのと同じ形を寸分違えず向こう向きに横たわり寝息は聞かれないが注意深く脇腹らへんを観察すればかすかに上下していて呼吸しているつまり生きているとわかりこれまた相変わらず掛け布団がずり落ちて肩と二の腕とが冷気に晒されるように見え例によってオレは布団の端を女の耳のきわまで引き上げてやった。

どんな顔をしているのかもさることながら歳の頃も気になるところだがどういうわけかこれは何かのスタートではなくゴールと思え、そもそもの始まりにおいて直感的にふと思われた禁忌を犯せば元も子もなくなるという気がしたし顔を見たいと思うこと自体オレには卑しいというかはしたないというかとても下品なことに思えた。ムラムラするというのとも違っていたわりの延長でふと匂いを嗅いでみたくなりその黒髪に鼻を寄せると重要文化財の匂い古い神社仏閣に足を踏み入れたときに嗅ぐ匂いもっといえば仏間の匂いがして母親の通夜のことが思い出され瞬間身を仰け反らし「幽霊」と呟いてみるも女は目の前で息をしており生きている。オレはむずむずといたたまれなくなってやおら立ち上がると部屋を出てドアをそっと閉めまずは台所の蛇口を開けて水を細く流しながらシンクに山積みになった汚れた食器類を洗剤含ませたスポンジでガシガシ洗いにかかったら急に目の前がふわふわしてきて立ちくらみと思って目を閉じ息を整えゆっくり十数えてからまた目を開いたら視界のあやふやさはもっとひどくなっていて物の輪郭という輪郭が細かく震えていまにも雲散霧消するようにも見えもしやと思ったオレは顔を近づけるのもはばかられてメガネを取って返ると案の定ウジの大量発生しかしなぜまたこんな真冬に。怖気を震いながら鍋の水を火にかけ流しからパラパラと落ちて床を這い回るヤツらめは三角コーナーにぶっ刺さったきり何週間と過ぎて先から三分の一まですっかり黒ずんだ使用済みの割箸を手に丸々太った一匹いっぴきを四つん這いになってつまんではビールや酎ハイの空き缶のなかへ投じていく。シンクのヘリに作られた行列や壁を伝うヤツらめは素手で払ってレジ袋のなかへ、そうこうするうち鍋の水は沸き立ちシンクの底にウジ入り空き缶三本と口を縛ったレジ袋とが置かれ上から熱湯をじわじわとかけていくとたちまちあたりは蒸気で濛々と白くなりウジどもは熱湯に薄皮破れて練乳のような中身をトロトロと流して溶け合い甘い匂いをあたりに広げながらひと筋になってシンクの排水溝に左巻きの渦を成しながら吸い込まれていく。ウジの始末に手こずったもののシャツやら下着やら靴下やらを脱いですっぽんぽんになり洗濯機を回し回すあいだ低いところに散らかったものをより高みへ高さ厚さ揃えて整頓していき45Lのゴミ袋二つが早くもパンパンになり掃除機かけるのはさすがに深夜だし女の眠りを妨げるかもしれないしで部屋の隅々にコロコロかけるとたちまち毛髪と陰毛だらけになる。クルクル動いているうちは暖かく暖房つけずとも裸でいて何の不都合もなかったのが洗濯物を乾かす段になってベランダ開けたら当たり前だが死ぬほど寒いというのは大寒波が来るらしいと「純ちゃん」のチーママも先ほど言っていたのでありほんとうはこれも洗濯したての部屋着を着込みたいところだったがそうもいかず寝臭い最後に洗ってから何週経つかわからないいつもの着古したスエット上下を着て再度ベランダに立って洗濯物を干していたら家々の屋根を超えた(ここはアパート六階)はるか地の果ての稜線に光の密集地帯があって新宿だろうか渋谷だろうかと見るうちそこから少し右に外れたところに青く光る針のようなものがそれこそ遠近無視すれば一センチにも満たない青い針で真っ直ぐに立っていてどうやらあれはスカイツリーらしいとここに暮らして三年経つオレが初めてそれを知るとは妙だった。

明日は土曜で会社は休みでいつもならこれから映画見てAV見て明け方まで深酒して自堕落の限りを尽くすところだがなぜかそんな気には微塵もなれず早く眠りたい朝早くに起きたい清く正しい軀体でふたたび隣室を訪れたいと切に思われてオレは久々に浴槽を洗い洗い場を洗い流すと風呂を沸かして熱い湯に浸かり軀体を隈なく洗い念入りに歯を磨くと台所で米を研ぎ炊飯器に三合分米を入れ朝炊けるようタイマーをセットし床に入れば淫らな想念に脳を委ねずまったき無になり抜かず乱れずで吸取紙に水滴の吸われるがごとき寝入りばな、それからは一度も目覚めず眠りの深さにおいて生涯記録を塗り替える。

目覚めたのは結局昼過ぎで窓から差す日の光のせいでもなければ隣室の女の気配のせいでもなくスマホの呼び出し音のせいで、職場関係の連中からの電話はいっさい受け付けない設定にしているから休日に電話とは珍しく取るとスナック「純ちゃん」のママ通称純ママからだった。こちらが応答する直前に電話は切れ履歴を見ると午前九時過ぎから三十分おきくらいにこれまでに五、六回着信のあったのが知れ、何事かと思うが留守電が二件残されていて聞くと一件目が「あの、純子です。昨夜はマチコさんとご一緒じゃなかったかしら。マチコさんがうちに帰ってないってヒロくんからさっき電話があったの。心当たりあったら連絡ください」ヒロくんというのはマチコさんのひとり息子で小学四年生だったか五年生だったか緊急連絡先として純ママのケータイの番号を母親から教えられていたものだろう。二件目が「あの、純子です。マチコさん、ヨシムラくんと一緒ならいいんだけど。いずれにしても早く連絡ください」でそれを聞いてからオレは折り返しワンコールで出た純ママに昨夜十二時過ぎに店に寄ったこと見知らぬ男がいてマチコさんの手相を占っていたこと二人でこれから出かけるから申し訳ないが今日はこれで店じまいと体よく追い出されたことを話して聞かせた。二人はどこへ行ったのかと聞くから会員制の寿司屋が駅の向こうにあるらしく客は店内では全裸にならなきゃなんないらしいんだけどそれを聞いてマチコさんは「ヘンタイ」と言い見知らぬ客は「墨東では一番の寿司を出す」と請け合い、はたして二人がその店に向かったかどうかまではわからないとオレは答えた。粉飾脚色の類はないはずだった。

隣室を覗くと女は相変わらずの横臥の姿勢で寝ていた。布団がずり落ちているのでかけてやる。トイレや飯のことが気にかかったが今日一日家にいるから謎は解けるだろうと思って珍しく朝飯というか昼飯というかを自炊し二人分を食卓に並べ女を起こすべきか逡巡してまぁ好きにさせてやろうとひとり食い始めたら案外腹は空いていたもので白飯を山盛りで二杯かき込んでその間に女は起きてこずオレは食い終わるなり下腹がきゅるきゅる鳴り始めて便座に座りついた途端水下痢が肛門から勢いよく噴出してそれから十分十五分と身悶えして全身の水分の大半を搾り取られるような塩梅だったからヘンな病気をもらったのかもわからないがしかしいったい誰からどこでどのタイミングで。

結局女は日が落ちても起きてこず食卓の上のひとり分の食事はみるみる乾いていき相変わらずオレは腹を下していて一時間おきにトイレにこもらざるを得ず、腹を抱えてソファにうずくまりながら滅多に腹など下すことはないのでこの状況がなんとも恨めしくも心細く戸外は赤から濃紫へ濃紫から藍へと目まぐるしく色を変えついに夜闇が降りると室のなかも真っ暗になって明かりの代わりに手近にあったリモコンでテレビをつけ野球中継を見るとはなしに見ながらそのうちにはてこんな真冬に野球中継かよと立ちかけると速報を知らせるアラームが鳴り画面上部に現れた白文字に目をやると「金木磨智子さん(52)」とあるのがそこばかり大きく見えるではなくより逆に小さく見えいずれにせよ強調されるようで、それはほかならぬ「純ちゃん」のチーママのマチコさんと同姓同名の漢字も同じだからでオレは上体起こすともう一度頭からテロップを読み始めたがどういうわけか文章がいっこうに頭に張り付いてこずまごつくあいだに速報表示は消えた。すぐさまスマホを探って見つけて取り上げてまず吃驚したのはその着信履歴の多さでそれからLINEも未読が百を超えそんなことはいまだかつてないことで「純ちゃん」と名付けたグループLINEがその元凶。オレの未読に対するメンバーの不審と既読がつく瞬間に向けてのはち切れんばかりの期待とが手に取るようにわかりわかればこそ全身の震えは抑えようもなく画面のタップすらままならない。

室にはいっさい明かりをつけないまま隣りの眠る女こちらに背を向け横臥する女を覗きにいき女の肩まで掛け布団を引き上げてやるとオレはしばらくどうしたものかわからなくなって傍に座ってうなだれていたがとうとうオレもまた横臥の姿勢を取って掛け布団越しに女の軀体に寄り添って黒髪に鼻先を突っ込んで深々と息を吸い今しがた判明した顛末を語って聞かせた。場所はここからほど近い江戸川河川敷で発見時刻は早朝で発見者は犬を散歩していた近所の老夫婦で遺体は関節という関節を鉈様のもので切断され胴体は骨盤部分と二つにへし折られた背骨部分と胸骨を境に割られた左右の肋骨部分とに分けられ内臓はことごとく抜かれ肉の血抜きも怠らず30Lの不透明のゴミ袋計十八個に小分けにされ二百メートルおきに設置された河川敷のゴミ箱計九個に二袋ずつ投じられ肝心の頭部は見つかっていない。マチコさんのことを話しているとは我ながらとうてい思えず何の作り話かと笑えてきて不意に黙り込んだのははたして自分の意志だったかどうかもわからない。マチコさんのことが気になっていたのはたしかだがそれは向こうがオレに好意を寄せていると思えたからで彼女を自分が好きだったのか改めて自問すると怪しいというか覚束ないというか好きって感情がそもそも何かもうわからなくなっている自分がいてヤリたいだけだったのかヤレる女を手近に確保したかっただけなのかなんかそう思いつくとそれが本当のような気がして殺されてしまったことよりもオレがそんなふうに思っていたことのほうがよほど非道いことのように感じられて純ママの電話口での取り乱し様を思い出しひとり残されたヒロくんのことを思えばなおのこと何もかも哀れでようやくオレは泣くのだとかまえたら不意に声がしたような気がして顔を上げる。

「来てるわよ。その人、ここにもう来てるわよ」

女がそう言ったに違いなかった。

♯4につづく

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