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耳たぶのゆくえ

 お父さまの経済がなかなか上向きになりません。それゆえ、子どもたちで考えてお父さまをお金持ちにしようと画策したところ、お金持ちは決まって福耳であるとどこぞで聞きつけたもので、福耳とはなにか→豊かな厚みと大きさのある耳たぶのこと、と合点するや、三人の子どもたちは寄ると触るとお父さまの耳たぶを引っ張るようになりまして、今日もお父さまは、嬉しそうに、いたい、いたい、と言いながら耳を引っ張られるに任せているのでありました。

 ある夜、救急車のサイレンがだんだん近づいてきて、行きすぎると思ったら、家の前ではたと止んだ。なんでしょう、と目を覚ました子どもたちが口々に不安がりまして、お母さまが寝ているあたりを手探るのでしたがそこはもぬけの殻。しばらくするとお母さまが寝室に現れて、子どもたちに言いました。
「パパに付き添って救急車で病院に行きます。大丈夫。あなたたちは何も心配いらないから。これからお祖父さまが来てくれますので、いい子にしているように」
 そう言い残して、お母さまは部屋を出ていかれたのでした。
 子どもたちは殊勝に頷いて、お祖父さまが来るまでそれはそれは大人しくしていました。お祖父さまが来ると挨拶もそこそこにひと眠りして、毎朝起きる時間にきちんと起き出すと、各々でお布団を畳み、お着替えも銘々ひとりでできました。それにしても、お父さまがどうしたのか誰も聞かないのは奇妙と思われるかもしれませんが、それもそのはず、子どもたちは皆なんとなく心当たりがあったのです。だから一番下の子が、パパのお耳が……と言いかかると、上の二人がそろって右手の人差し指を口に当て、シーっと最後まで言わせないようにしたのでもありました。

 三日後にお父さまは退院されました。頭の周りに斜めに包帯をぐるぐる巻きにしていて、左耳のところが包帯の下でぽっこりと膨らんでいるのが見て取れました。やっぱり! と子どもたちは皆思ったものでした。お父さまは子どもたちを見ると相変わらずニコニコして、とても心のこもった挨拶を一人ひとりにされました。退院のお祝いに上の男の子はイタリア歌曲を歌いました。真ん中の女の子はお父さまとラクダが並んだ絵をプレゼントしました。下の女の子は、ピンクの折り紙でこさえた何かをお父さまに差し出しました。
「これは何かな。笹舟かな」
「ちがうよ。お耳だよ」
 上の二人が目を白黒させて動揺するのが手に取るようにわかります。でもお父さまは平気です。なんでもないように贈り物を受け取ると、
「包帯が取れたら早速付けてみよう」
 と言って、下の女の子の頭を愛おしげに撫ぜました。女の子は嬉しくなってぴょんぴょん跳ね回りました。

 それからしばらくして、真ん中の女の子がある不審に気がつきました。下の女の子が上着やズボンのポケットに左手を突っ込んで、なにやらゴソゴソやるのをたびたび目撃するようになったのです。みぃちゃん、何持ってるの? と何気なく聞くと、激しくかぶりを振るばかり。いよいよいぶかって、力づくでポケットから手を出させようとすると、火のついたように泣き出して、お母さまやお父さまに庇われる。泣きながら、それでも左手をポケットから出さない頑なさを、お母さまもお父さまも幼女の頑是ない振る舞いの一つと見て、許してしまわれる。
 それでも真ん中の女の子はどうにも諦めがつかなかったようで(この子は傍目にもなかなか頑固のようです)、それでとうとうお母さまとお父さまの目を盗んで下の娘をまろばせると、馬乗りになって左手をポケットから抜きにかかりました。阿鼻叫喚の図となるのはお察しの通りです。ピアノを練習中だった上の男の子が駆けつけると、真ん中の娘のご乱心を制止にかかる。と、みぃの左手がとうとうポケットからスポンと抜けまして、あっと誰ともなく叫んだのも束の間、すかさずその手が口元に行ったかと思うと、なにやら頬張って、あっという間に飲み込んでしまったのでありました。
 上の男の子の証言ではあれは餃子だったということになるのですが、四六時中一個の餃子をポケットの中でこねくり回していたとは考えにくい。真ん中の女の子が主張するように、あれはほかならぬ人間の耳だった、とするのがこの場合正しいような気もするのですが、どうにもわたしたちとしては判断しかねるわけです。なにぶん一瞬のことで、下の女の子がなにを頬張って飲み込んだのか、はっきりと確認できた者は誰もいなかったのですから。

 お父さまの包帯はまだ当分取れないようです。お父さまは気が向くと子どもたちを膝の上に載せると、優しく髪をかき上げて、子どもたちの耳たぶを触るようになりました。それが、子どもたちには恐怖でたまらないよう。
「福耳とは」
 とお父さまが言います。
「福音を聞く耳のことなんですよ」
 そう言うと、お父さまは耳元に口を寄せて、わたしたちにも聞こえない小さな声で、何事かを囁くのです。
 ある時、真ん中の女の子が言いました。
「どうしてお父さまは、小さい声でそんな素敵なことを囁かれるの」
 するとお父さまはニッコリされて、しばらく女の子の頭を撫ぜてから、
「どうしてかって。わたしたちの福音を盗もうとする輩がそこらじゅうにいないとも限らないから」
 そう言ってお父さまの上げた視線が、わたしたちをしかととらえました。
 なんのことはない、お父さまはとうからわたしたちの存在に気づかれていたのです。

(了)

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