待ち受けていた現実①
20××年 9月×日 僕は刑務所を仮釈放で出所した。
判決で5年の実刑を言い渡され、未決期間という裁判で量刑が確定するまでの警察や拘置所で拘束されていた期間の約40%くらい(例えば180日拘束されていたとすると約70日)が刑期から差し引かれ実際に服役する刑期となる。僕の場合約4年ほどの刑期になり、仮釈放ももらえたので刑務所に服役していたのは正味3年と少しだった。
僕はシャバでの生活であれもやろうこれもやろうと希望に満ち溢れて刑務所を出所した。
逮捕される前は自分で数社会社を経営していたこともあり、生活水準もかなりいい方だったと思う。
またビジネスを始めて必ず返り咲いてやる。
そう思いながら近い将来また以前と同じような生活ができると夢見て帰りの電車に乗ったことを覚えている。
まず仮釈放されてイの一番に向かわなければならないのが最寄りの保護観察所だ。そこには仮釈放されたその足でどこにも寄り道せず一直線に向かう必要がある。
僕が収監されていた関西地方の施設から東海地方の最寄りの保護観察所まで電車で約5時間程。特急料金や新幹線料金などはもちろん支給されないので鈍行で帰るしかない。(もちろん自費で特急や新幹線などの費用を出して帰るのは自由)
途中の駅まで一緒に仮出所した元受刑者で迎えが来ていない人たち数人と一緒に途中まで行くこととなった。
しかしやはりそんな人たちが複数人でキョロキョロしていると見る人が見れば刑務所上がりだとはすぐばれていただろう。だって全員ボストンバックか紙袋をもって季節外れの服着てる人もいれば全員坊主に近い短髪で無精ひげ生えてて、お金は封筒から出してるのですからね (笑)
そうこうしているうちに一人また一人と一緒に帰っていた元受刑者たちはそれぞれの自宅や保護会(帰る場所がない人を受け入れる施設)の方面へと散っていき大阪からは僕一人になった。
今までは塀の中でシャバの風景からは遠ざかっていた僕は5時間という長い道のりの中もちろんスマホもあるわけがなく特にすることはないのだが飽きることなく外を眺めていたり、電車にいる人たちを観察したりしてあっという間に時間は過ぎていった。
やはりその中でも目で追ってしまうのはどうしても女性の姿になってしまう。僕のいた施設では女性の管理職の刑務官と医務の看護師さん2名がいたのだが、やはりそれでもミニスカートをはいたきれいに化粧をしたりしている女性は魅力的に見えた。
はたから見たらかなり怪しいおっさんだったと思う (笑)
そうこうしているうちに美玖敵の保護観察所に到着した。保護観察官とは定型文のようなやり取りをして今後の仮釈放期間の過ごし方や仕事のことなどについていろいろ話、30分ほどで面会は終了した。
それが終わると最寄り駅で公衆電話を探す必要があった。なんせ携帯は持っていないのである。連絡を入れなければ。
普通仮出所には身元引受人(多くな場合は親や親族)が刑務所まで迎えに来て一緒に帰ることのなるのだが、僕の場合は刑務所は関西地方、居住地は東海地方と遠方である上に身元引受人である母親は82歳と高齢であるため刑務所まで迎えに来ることは出来ないし、来ないようにも伝えていた。
ちなみに父親は高齢で僕が逮捕される少し前から認知症もひどくなってきたので特別養護施設に入っていたが、僕が逮捕されて警察署内の留置所にいる間になくなってしまった。その訃報を僕は警察署内の面会室のアクリル板越しに弁護士から聞かされた。いや、正確には聞かされたというより面会中に弁護士に電話がかかってきてそれが父親の訃報の知らせだったのだ。
当時は僕にも知識がなく知らなかったのだが、警察に留置中に身内がなくなったりして葬式に出たい場合は特別にその日一日拘束が解かれて葬儀には出席できる制度があるらしい。もちろん葬儀場まで警察官が2名で同行し逃亡しないよう見張ってい入るのだが、それでも葬儀には出席することができるのである。しかし、その担当弁護士はまだ弁護士になって2年目の若造だったためかそんな知識を持ち合わせていなかったのだろう。僕にそんな制度のことを話すこともなく僕は留置場の中で涙を流しながら申し訳ない気持ちと途方に暮れた気持ちで眠れない夜を過ごすしかなかったのである。
話は戻るが、母親の迎えがなかった僕は母親に無事仮釈放されて近くまで帰ってきていることを知らせなければならない。そのために公衆電話を探した。そしてやっと見つけた公衆電話に刑務所の仮出所時にもらった作業報奨金が入った封筒の中から100円玉を数枚取り出し震える手で電話をかけた。
電話すぐにつながり母親の懐かしい声が聞こえてきた。僕は無事仮出所したこと、たった今、保護観察所に行ってこれから帰ることを伝えた。
母親は最寄り駅まで迎えに来ると言っていた。
約3年半ぶりの母親との再会が近づいてきた。3年半といっても普通に社会で生活しているときの3年半とはわけが違う。愛する息子が刑務所で服役していて会いたくても会うことのできない3年半は同じ時間が流れていない。
会った瞬間母親は泣いた。僕は泣かなかった。ただ胸が締め付けられるようななんとも申し訳ない苦しい気持ちになった。
「とりあえずご飯を食べに行こう!何が食べたい?なんでもいいよ。」
母親はそう言って車を発進させた。
ただ僕の実家はすごく田舎でどこでもいいよと言っても大した店はほとんどない。なので僕は刑務所の中ではほとんど食べられなかった牛肉を食べようと思い、焼肉がいいな。といった。車で30分の範囲内くらいに2,3件の焼肉屋があったと思うが曜日が悪かったのかそのすべてが定休日で閉店していた。仕方ないので最後に向かった焼肉屋の近くにあった中華料理のチェーン店「浜木綿」へ行くこととなった。
確か僕は麻婆豆腐、チャーハン、かに玉、春巻き、八宝菜、とゴマ団子を頼んだような記憶がある。もしかしたら他にも頼んでいたかもしれない。
もちろんそんなに頼んで刑務所の少ない食事で小さくなっていた僕の胃がそれらをすべて飲みこめるわけがなく1/3くらいは残したと思う。
それらを僕が口いっぱいに頬張っているあいだ中、母はずっと笑顔で僕を見ていた。
刑務所に入ったことある人ならわかると思うが、刑務所ではかなり早食いが必要とされる。すべてが団体行動のため一人だけ食べるのが遅くても全員が姿勢を正してその一人が食べ終わるのを待っていなければならない。
最後の一人が食べ終わって刑務官が
「喫食やめーーーー!!」
という号令をかけたら体を楽にして自由時間となるのだ。
そういう環境のもと3年以上暮らしていた僕は世間一般の人から見たら恐ろしいほどの早食いになっていたのだ。
そのため浜木綿での滞在時間はほんの数十分で退転し、仮釈放時の指定居住地である実家に帰ることとなった。
実家では兄とその嫁が待っていた。母親は実家で兄夫婦と暮らしており、僕はその離れにあるガレージの2階部分で仮釈放期間は生活させてもらうことになっていた。肩身はかなり狭い。まずは迷惑かけたことを謝り、これから仕事を探してやり直していくことを話した。兄とはもともとほとんど会話もなく他人のような関係だったので特に何も言わずあまり気にしない感じだったが、嫁さんの方はかなりいやそうな感じだった。まぁ当然なのだが。
こんな感じで仮釈放当日は過ぎていき、もう疲れているだろうということでいろいろやるのは明日からにして休もうということになり僕はそのガレージの2階にある居住スペースへと帰っていった。
パート②に続く