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実は私、不登園児だったんです
西尾克洋さんが、面白そうなエベントを開催していました。
西尾さんの記事も面白いし、マガジンやフォロワーさんもエンターテナーの方ばかりなので迷いましたが、なんでもカミングアウトしていいらしいので投稿してみようと思います。
◎遡ること57年前、はじめての集団生活
4歳になった私は、近所の幼稚園に通うことになった。
共働きの両親に代わり、私の世話をしてくれていた祖母に手を引かれ歩いて通っていた。
人見知りの私は幼稚園が好きじゃなかったことは覚えている。
それまで祖母と二人、家の前の道路にローセキ(※)で気ままに絵を描いたり、絵本を読んだりしながら自由に過ごしていた。
それなのに、いきなり知らない子がたくさんいる部屋に押し込まれ、どうしていいかわからなかった。
※ローセキ
鉱物でできた筆記具のことで、昭和30~40年代くらいは駄菓子屋で1つ10円くらいで売っていた。アスファルトやコンクリートに白文字を書くことができ、水で流せば比較的簡単に消せることができるので、子供たちは地面に落書きをしたりして遊んでいた。
◎幼稚園児、職員室に呼び出される
ある日、私は幼稚園の小さな職員室に、好きだった先生と二人で向かい合って座っていた。
左には扉があり、ガラス越しに園児たちが中を覗き込んでいる姿をはっきり覚えている。
昭和30年代によくある、真ん中から下がすりガラスになった木枠のガラス扉だった。
ドラマや漫画みたいに、べたべたとガラスに無数の掌が押し付けられ、すりガラスの上に半分だけ見えるたくさんの園児の顔、顔、顔。
ホラー映画のようだった。
当時はなぜ自分が職員室で先生と二人きりで向かい合っていたのか、なぜみんながのぞき込んでいるのかわからなかった。
先生が一生懸命話していたが、窓ガラス越しにのぞき込むクラスメイト達の姿があまりに印象的で、先生の言ったことは何も覚えていない。
◎脱走犯
後でわかったことだが、私は先生から説教を食らっていたらしい。
私がたびたび幼稚園を脱走して、家に帰っていたからだ。
家に帰った私は、祖母に見つからないようにまっすぐ裏庭に直行し、ひっそりと蟻の巣をつついたり、地面に穴を掘ったりして過ごしていたらしい。
裏庭にしゃがみこんで、そこらへんに落ちていた木の枝を拾ってなにかやっていた姿を自分でも覚えている。
あまりにもほのぼのとした映像記憶だったので、まさか幼稚園脱走時のこととは思ってもいなかった。
幼稚園を脱走して家に帰っていたことは祖母も気づかなかったらしい。
方向音痴の私がどうやって家に帰っていたのか、道中の記憶は全くない。
歩いて通える距離とはいえ、大人の足で5分くらいかかるし、バス通りを歩いていく。そのころは方向音痴じゃなかったのか、帰巣本能というやつか。
それにしても、幼稚園児がひとりで真昼間にバス通りを歩いていたのに、誰も気づかないなんて、のんきな時代だった。
結局私はその後も懲りずに脱走を繰り返したため、ついに幼稚園バスに乗せられることになった。
幼稚園バスに乗るときは、バス通りのパン屋さんでカレーパンを買ってもらえることになったせいか、それ以来脱走しなくなった。
カレーパンにつられた、食い意地が張った幼児だった。
◎食い意地の張った幼稚園児の今
相変わらず集団生活は苦手だし、4人以上人が集まるところでは聞き役に回る。
カレーパンが象徴するように、集団生活のストレス回避術は食だった。
美味しいものがあれば楽しく生きていける。
今でもカレーパンは大好きだ。
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