コギトエルゴスム
やっと、おどりばに辿り着いた。
ずっと、ずっと、休むことなく階段を彷徨っていた気がする。
周りを見渡しても、自分が今どこにいるのか分からない。
何かに追われていたのだろうか。
何だか自分に追われていたような気もする。
上りすぎたのか、それとも未だ全然上っていないのか。
何処までいけばいいのかも分からない。
1年前、長い学生生活が終わった。
卒業なんて呆気なかった。卒業式は中止となり、卒業証書は郵送。
手元に届いた卒業証書は何とも味気なく、「いらない」と思ったほどだ。
きっと卒業証書は、卒業式の出席証明書なのだろう。
思い出のない卒業証書は、ただの紙切れでしかない。
長い青春を捧げた学生生活の「終わり」が、こんなに儚いものだとは。
言葉にならない感情を消化できないまま、当時の自分は考えることを「終わり」にした。
そして入社式もなく社会人となった私は、胸の奥にあるムズムズとした感情を押し殺すかのようにして仕事に励んでいた。鏡で自分を見つめる暇もなく。
自分の「やりたいこと」と「やっていること」のギャップを感じ始めたのはこの1,2か月のことで、「何かおかしい」と思いながらも今まで立ち止まることができなかったのが悔しい。
長い階段を彷徨い続けておどりばに辿り着いた今、私は社会人になって初めて自分の姿をちゃんと眺められている。
自分が、自分じゃないみたいだ。
というか、もはや自分の知っている自分ではない。
「自分はもっとこうだったはず」
そう思う自分が、本当に自分の考えている自分なのかすら分からない。
理想の自分と現実の自分に、なんだかディスタンスを感じてしまう。
理想の自分なんて、考えたことがないのに。
何のために勉強をしていたのだろう。
何のために部活に励んでいたのだろう。
何のために就職したのだろう。
何のために、何のために、、、一体何のために生きているのだろうか。
考え出すと止まることはなく、
「何のために生きているかも考えずに、私は生きている(いた)のか。」
というような答えのない問いすらも頭の中をぐるぐると回って、私の思考を蝕む。
「何かが始まるとき、必ず何かが終わる。」と本で読んだことがある。
そろそろ冬も終わり、暖かい春が始まる。
冬から春になる時は、夏から秋になる時よりもワクワクする。
晴れた後の雨よりも、雨の後の晴れを嬉しく感じるのと同じなのだろうか。
小学生は中学生に憧れたり、中学生は高校生に憧れたりするし、
いつしか、大人に憧れたりもする。
ずっと、次の「始まり」に憧れてきたのかもしれない。
でも、大人には、次の「始まり」は訪れない。
「始まり」を迎えに行きたければ、自分がそれを「終わり」にしなければならない。
私はここで、次の「始まり」を創造するために息を整える。