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NEXUS/ユヴァル・ノア・ハラリ~⑤第5章「決定」(上完)
人間は誤るから、軌道修正するシステムが必要
第4章では、人間は誤る存在であるがゆえに(可謬性)、複数の視点や多様な意見を取り入れることで自らの過ちを修正するシステムがある(自己修正メカニズム)。一方、恣意的な目的によってシステム不全をきたし、結果、不平等や格差、差別が生じる可能性もある(メカニズムの機能不全)、という点が論じられました。
第5章の多くは、政治体制を旧ソ連やナチス政権を例に「全体主義」vs「民主主義」という二項対立を念頭にしながら、全体主義がいかに国民を抑圧するために「情報」をいかに管理、統制するのか記されています。そして、AIの登場が全体主義をいかに有効化する可能性を持つか、が論じられています。
■ 第5章「決定」(上完)概略
全体主義体制は情報を管理・統制することで国民を抑圧するが、民主主義体制は自律分散型の情報ネットワークを持ち、人権と公民権を保障する。ポピュリズムは民主主義の原理を悪用し独裁体制を築こうと策略する
民主主義が機能するためには一定の条件が必要であり、全体主義は情報の一元化と独立権力の抑制を特徴とする。民主主義は情報に基づいた意思決定と議論を重視するが、全体主義は指導者による一方的な意思決定と議論の抑制を行う
全体主義は抑圧による心理的コストや多様な情報ネットワークの欠如により、結果、技術革新が遅れてしまい発展が連続性を帯びない?
■ 民主制とは?それは、自律分散型の情報ネットワーク
民主制とは?多数制?選挙が大事?
強力な自己修正メカニズムを持つ分散型の情報ネットワークという民主制
三権分立に具象されるように権力が一極集中しないように、かつ、それぞれが独立した機関であり、相互に牽制しあうことができる、つまり「自律分散型の情報ネットワーク」と言えるでしょう、多くの民主制国家では当然ともいえるシステムです。
民主制というのは、どれだけの規模の多数派であれ、不人気な少数派を皆殺しにできる制度ではない。中央の権力に明確な限度がある制度なのだ。
民主制もスペクトル(連続体)であって、中央権力が強い場合と、そうではない場合がある。それも相対的ではありつつ、民主制とそれ以外を分かつところに、明確な権力制限(あるいは抑制)がある、としています。
そもそも民主主義とは?その歴史的過程を知る
民主主義を考えるのに私が参考にした情報リソースとして「COTENラジオ」があります。毎週、ポッドキャスト経由で聞いていますが、数年前に放映された「奇想天外!民主主義~人類が求めた自由と平等」は、人類誕生以降の民主主義という考えの成り立ちを丁寧に、わかりやすく解説しています(これも含めて、とてもお勧め!)
※音声版は以下(Spotify)
民主制の要件と権利
民主主義の要件・特徴には、一般に
1.国民主権(主権在民)
2.立憲主義(法の支配)
3.多数決の原理(選挙制度など)
が挙げられることが多いですが、
民主制では、多数派の支配が及ばない権利のカテゴリーが2つある。
一つは「人権」、もう一つは「公民権」
としています。
たとえ国民の99パーセントが残る1パーセントを皆殺しにしたくても、民主社会ではそれは禁じられている。なぜならそれは、最も基本的な人権である、生命に対する権利を侵すからだ。人権のカテゴリーには、就労する権利やプライバシーに対する権利、移動の自由、信教の自由など、他にも多くの権利が含まれる。
公民権とは、民主制というゲームの基本的なルールであり、自己修正メカニズムを神聖なものとして大切にする。公民権のうち、明白な例が選挙権だ。仮に多数派が少数派の選挙権を奪うことを許されたなら、民主制はたった 一度の選挙の後に終わりを告げる。公民権には他に、報道の自由や学問の自由や集会の自由が含まれ、そうした権利のおかげで、独立した報道機関や大学や反対運動は、政権の正統性を問うことができる。
つまり、基本的人権が保障された個人がおり、かつ、国家など権限を有する機関や組織に対して意見を物申すことできる、としています。どんなにマジョリティ(多数派)の声が大きく実権を有していても、人権と公民権をもって、正しいことを主張することはできるのです。当たり前のようで、実現しきれていないのが現実ですが、重要な理想体系だと思います。
しかしながら、多数派が力を有し、時に暴走をきたすこともある、それが「ポピュリズム」(大衆主義)としています。
人民の力、ポピュリズム
ポピュリズムは「人民の力」という民主主義の原理を遵守していると主張できるとはいえ、実質的には民主主義から残らず意味を取り除き、独裁社会を打ちたてようとする。
ポピュリズム(Populism)という概念は、19世紀後半のアメリカで初めて登場しました。特に、1890年代のアメリカの農民運動(Populist Party)がポピュリズムの代表的な例とされています。この運動は、農民たちが都市部の富裕層や政治エリートに対抗するために結成されました。
ポピュリズムは、人民の声を政治に反映させるという点で民主主義的な側面を持つ一方で、排他的なナショナリズムや差別を煽る危険性も指摘されています。
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「民主主義は最悪の政治形態である。ただし、これまで試みられてきた他のすべての形態を除けば」これは、イギリスの元首相、ウィンストン・チャーチルが残した有名な言葉ですね。経済学者のミルトン・フリードマンも、民主主義が経済的自由を制限する可能性があると主張しました。また、政治学者のカール・ポランニーは、民主主義が専門知識を持つ人々の意見を軽視する
国家体制のみならず、企業やあらゆる組織においても完全無欠の状態というのはなく、常に変化を前提にする必要があるはず。民主主義という体制もあくまで仮初の姿かもしれないし、企業が毎年のように組織変更をするのには理由があるかもしれないですね(といっても当事者としての組織人としては工数がかかる一方ですね苦笑)。
そこで、全体主義の台頭と論が展開されます。過去の帝国や独裁の歴史を概観しても、実は全体主義が発展、継続する例というのは必ずしも多くないそうです(ローマ帝国、アッバース、モンゴル帝国など)。
■ そもそも民主制はどんな時に機能するのか?
民主制が機能する条件
帝国の大きさと、利用できる情報テクノロジーを考えると、民主制はどうしても機能しえなかった。 これはすでに、プラトンやアリストテレスらの古代の哲学者も認めており、彼らは民主主義は小規模な都市国家でしか成立しないと主張している。
これが近代的テクノロジーの進化によって様相が変わってくる。
19世紀に工業経済が台頭し始めると、政府は以前よりはるかに多くの行政官を雇い、電信やラジオといった新しい情報テクノロジーによって、素早くつなげて監督できるようになった。
つまり、20世紀以降は以前に増して情報を集約、管理、統制が可能な状態になった。さらに言えば、より人間をコントロールしやすくなった、とも。
全体主義は、素早く意思決定ができる、それも情け容赦なく。
全体主義はすべての情報が中枢を通過することを望み、独立した機関が独自の決定を下すことを嫌う。たしかに全体主義には、政権と党と秘密警察という三つ組の機関がある。だが、これら3つを併存させるのは、中央に楯突きかねないような独立した権力が登場するのを防ぐためにほかならない。政権の役人と党員と秘密警察の諜報員が絶えず監視し合っていれば、中央に逆らうのははなはだしく危険になる。
対照的な種類の情報ネットワークである民主主義体制と全体主義体制には、それぞれ長所と短所がある。中央集中型の全体主義ネットワークにとって最大の強みは、極端なまでに秩序立っていることであり、そのおかげで素早く決定を下して情け容赦なくそれを実行に移せる。戦争や感染症の流行のような緊急事態のときには特に、中央集中型のネットワークは分散型のネットワークよりもはるかに 迅速で踏み込んだ措置が取れる。
民主主義と全体主義の対比:情報ネットワークの観点から
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(あくまで自己理解)
では、なぜ全体主義が発展せず、第二次世界大戦後は民主主義が国家や思想体系の中心になったのか?という疑問が湧いてくると思います。
民主主義は、
「情報に基づいた意思決定」において国民が、多様な情報源から得た情報に基づいて、 自分の意思を決定することが可能。また、「議論と合意形成」においても様々な意見を交換し、合意形成を図るプロセスが重視される。
全体主義は、
「指導者による意思決定」であり、特定かつ少数の指導者が、限られた情報に基づいて、一方的に意思決定を行う。 また、「議論の抑制」が頻発され指導者に反対する意見や批判は、弾圧される。
このような全体主義の状態を「心理的コスト」としています。
心理的コストによる自発性の欠如
この完敗の原因は、1941年以来ずっと議論されてきたが、重大な要因はスターリン主義の心理 的コストだったということで、ほとんどの学者の意見が一致している。政権は何年にもわたって国民を威嚇し、自発性や個性を罰し、従順さと服従を奨励した。そのせいで兵士たちのやる気が失われた。
確かに抑圧された心理的不安全性のもとでは自発的で、創発的なアイディアや議論がなされずに、常に指導者や上層部に気に掛ける”ヒラメ”状態にならざるを得ないといえます。では、その結果、何が生じるのか?もちろん、先の通り意思決定スピードなどは情け容赦なく可能かもしれません。しかし、自主性、創発性が欠如することで圧倒的にイノベーションは創出されることはないのは想像に難くありません。
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初めてのパソコンと1100万台のパソコン
ソ連初のパソコンがようやく登場した のは1984年で、そのときにはアメリカ人はすでに1100万台のパソコンを持っていた。
ここまで国力の差がでてしまうこととなるのが心理的不安全性なのですね。
■ 現代に目を戻すと…全体主義の出戻りは?そしてAIの登場
一部の国では権威主義的な体制が強化され、全体主義的な傾向が見られるようになっています。全体主義が完全に再台頭する可能性は低いものの、民主主義が後退する可能性は否定できません。民主主義を守り、発展させるためには、常に社会の状況を監視し、警戒する必要があります。アメリカもポピュリズム、ナショナリズムが再び台頭というよりも、やや行き過ぎた自由への反動(例えば、SDGs、ESG、マイノリティの権利拡大など)もあるのでは?とも言えるかもしれません。
AI:エイリアン・インテリジェンス
これまでは、歴史上のどの情報ネットワークも、人間の神話作者と官僚に頼って機能してきた。結 土板やパピルスの巻物、印刷機、ラジオは、広範に及ぶ影響を歴史に与えたが、あらゆる文書を作成 し、それを解釈し、誰を魔女として火あぶりにしたり、誰をクラークとして奴隷にしたりするかを決 めるのは、つねに人間の仕事だった。
ところが今や、人間はデジタルの神話作者や官僚を相手に回さなければならなくなる。21世紀の政治における最大の分断は、民主主義政権と全体主義政権との間ではなく、人間と人間以外の行為主体との間に生じるのかもしれない。新しいシリコンのカーテンは、 民主主義政権と全体主義政権を隔てる代わりに、全人類を、人知を超えたアルゴリズムという支配者と隔てるかもしれない。
独裁者たちさえ含め、あらゆる国のあらゆる分野の人が、気がついたときには人間のものとは異質の知能の隷属者になっていかねない。エイリアン・インテリジェンスは私たちのやることなすことをすべて監視できるが、私たちのほうはエイリアン・インテリジェンスが何をしているのか、ほとんどわからない。
人間は不完全な生き物であり、多くの過ちを何度も繰り返してきました。常に反省すべきであり、仮に当事者ではなくとも振り返り、自己や周囲と内省を深めることが大切だと思います。それ自体が「自己修正メカニズム」になりえると思いますし、人間は学ぶことができると信じています。
一方、ハラリはそうした新たなアルゴリズムとしてAIについての脅威を呈しています。人間の過ちもまだ情報ネットワークという観点でいえば、規模が小さく持続性がなかったものが、AIであればどうだろうか?という問いです。それがゆえに、異国、異質という意味で”エイリアン”という意味でAIへの脅威や畏怖を示しています。
■ 考察メモ(まだ考え中)
国家の在り方として、情報公開や透明性の確保は今後も変わらず重要な論点でしょう。同様に、人権や多様性、民主的な意思決定プロセスの導入もガバナンスという観点以前に国家や組織運営では一層、求められるでしょう。
また、技術革新の観点でも心理的安全性といわれて久しいですが、歴史が示す通り、独裁などによる心理的コストの負担は想像以上にイノベーションを抑制していることも見て取れます。
一方、AIの登場によってポピュリズムを恣意的に活用し、民衆を扇動し、情報を統制することがより容易になる可能性がある…というのが下巻に続く論調で5章は締めくられています。
確かにその可能性はありえるでしょうし、既に情報をハックされてしまっている可能性も否定はできません(ターゲティング広告もその一つ)。
これだけ情報過多になった社会において情報の真偽を判断し、適切な情報に基づいて意思決定することがますます難しくなっているのが現実ではないでしょうか。
ジャム理論(選択のパラドックス)の通り、人間は情報が多ければ多いほど判断、意思決定ができにくくなります。つまり、情報がオープンで透明性があることが逆説的に思考停止状態に繋がってしまっているとも言えます。
一人一人が自らの考えのもとに判断し、行動し、それを自らが振り返り、時に軌道修正しながら、自らの足で立ち上がることができる状態、が私が考える個人の理想です。社会貢献という大きなフェアフェイ・枠組みの中で、それぞれが活動する社会があるべきと考えます。
しかし実際は、自らの思考や行動が無意識にブレインハック(脳の乗っ取り)がされており、自分が自分ではない状態になっている可能性も否定はできないでしょう。人間は社会的動物であるとした場合、自他との比較は避けられず、互いに影響しあっており、それが意識、無意識的に自分の言動に反映されているとしたら…、そしてそれがAIという第二の知性によって恣意的な操作がなされているとしたら…、数年前までならば映画のSF(少し不思議な)世界だけの物語でしたが、いまは決して違うとは言い切れないのではないでしょうか。それだけ今のスピードは加速し、その加速度合いに私たちも追いつていけず、現実も直視しきれていないのではないでしょうか。