病院薬剤師が語る歴史人物数珠つなぎ 「道長と藤原摂関家」編❻藤原冬嗣
もし薬学の道を選ばなかったら日本史の先生になりたかった私、病院薬剤師だまさんによる、ちょっとマイナーな歴史上の人物を紹介するブログです。
本シリーズでは、摂関政治で頂点を極めた藤原道長を起点に、その祖先から子孫に至る流れをたどっていきます。
今回は、藤原四家の中から北家を躍進に導いた藤原冬嗣です。
藤原四家の興亡
藤原冬嗣は藤原内麻呂の次男です(775-826年)。
藤原四家の一つ、藤原北家の祖・房前の曾孫に当たります。
藤原四家とは、藤原不比等(中臣鎌足の次男)の4人の息子が興した藤原氏の4つの家の総称です。
南家は、天然痘により武智麻呂が病没した後も、その長男・豊成と次男・仲麻呂は順調に昇進を重ねていきました。特に仲麻呂は孝謙天皇の寵愛を受けて人臣初の太政大臣にまで上り詰めましたが、恵美押勝の乱で敗死したことを機に低落し、以降南家は中下級貴族に甘んじることとなりました。
式家は、宇合の没後、その長男・広嗣が左遷された不満から九州で反乱(藤原広嗣の乱)で敗死してしまいます。しかし、八男・百川は白壁王(のち光仁天皇)擁立に尽力し、没後に正一位・太政大臣を追贈されています。
後述する薬子の変を起こした仲成・薬子兄妹も式家の出であり、平安初期、藤原氏の中で最も力のあった家だったと言えます。
京家は、麻呂の没後、長男・浜成が参議に昇ったものの、氷上川継の乱に連座して流罪になったことで、一族全体の政治生命が絶たれてしまいました。
もし冬嗣の活躍がなければ、平安京(と言うか旧都・平城京)は式家に牛耳られていたかもしれません。
二所朝廷と薬子の変
冬嗣が頭角を現すのは嵯峨天皇が即位した頃からです。
桓武天皇が崩御して皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位しましたが、叔父早良親王や伊予親王の祟りを恐れて、弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して旧都である平城京へ移ってしまいます。
ところが、平城天皇の寵愛を受け専横を極めていた尚侍・藤原薬子とその兄の参議・仲成は平城上皇の復位を目論見、平安京と対立します。
このような状況を二所朝廷と呼びます。
平城上皇が平城京への遷都を宣言すると、嵯峨天皇は当時蔵人頭に就任したばかりの冬嗣に命じて出兵させ、上皇側を捕縛しました。
その結果、平城上皇は出家、薬子は自害、仲成は当時としては異例の死罪(射殺)となりました(薬子の変)。
「天皇家との婚姻」という離れ業
冬嗣には真夏という兄(長男)がいました。
真夏は、皇太子・安殿親王(後の平城天皇)の側近でした。
一方、冬嗣が仕えていたのは桓武天皇の第五皇子・神野親王でした。
出世街道にいたのは明らかに真夏でしたが、第三皇子・伊予親王の変(807年)と平城天皇の譲位を経て、神野親王(嵯峨天皇)が即位します。
この幸運により冬嗣は、兄を追い抜き急速に昇進していきます。
823年に嵯峨天皇は異母弟の大伴親王(淳和天皇)に譲位します。
これに前後して冬嗣の次男・良房と嵯峨天皇の娘・源潔姫の結婚、冬嗣の娘・順子の正良親王(後の仁明天皇)への入内が行われます。
この嵯峨天皇家と冬嗣家の二重の婚姻は、天皇家の外戚としての冬嗣の立場を盤石とするものでした。
朝廷と仏教の関係性
「鳴くよ鶯(うぐいす)平安京」(794年)
力を持ち過ぎた寺社勢力を避けて長岡京、次いで平安京への遷都を断行した桓武天皇は、奈良仏教(南都六宗;東大寺・興福寺など)に替わる新時代の仏教を希求していました。
当時の仏教界最大のトピックスは「密教」でした。
密教を日本に初めて伝えたのは、26年ぶりに派遣された遣唐使(803年)で唐に渡った最澄(伝教大師;天台宗の開祖)によるものでした。
当時の皇族や貴族は、現世利益を重視する密教に関心を寄せました。
しかし、天台教学が主でわずか1年間の短期留学生でもあった最澄は、密教を十分修学して帰国した訳ではありませんでした。
密教が本格的に日本へ伝来されたのは、唐における密教の拠点・青龍寺において修学した空海(弘法大師;真言宗の開祖)が、806年に帰国してからのことでした。
空海に関して個人的に忘れられないのは、浪人時代に当時大阪玉造日之出通商店街にあった映画館で観た映画「空海」(主演:北大路欣也)でした。
3時間にも渡る長編。遣唐使・薬子の変・満濃池の改修・入定など見所満載で、桓武帝(丹波哲郎)・嵯峨帝(西郷輝彦)・最澄(加藤剛)との関係性も丁寧に描かれていたことを覚えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
さて次回は北家傍流からの下剋上を果たした立役者・藤原内麻呂です。
お楽しみに。