見出し画像

病院薬剤師が語る歴史人物数珠つなぎ    「道長と藤原摂関家」編❹藤原基経

もし薬学の道を選ばなかったら日本史の先生になりたかった私、病院薬剤師だまさんによる、ちょっとマイナーな歴史上の人物を紹介するブログです。

本シリーズでは、摂関政治で頂点を極めた藤原道長を起点に、その祖先から子孫に至る流れをたどっていきます。

今回は日本史上初の関白・藤原基経です。


「ゴネ得」人生

藤原忠平は藤原良房の養嗣子です(836-891年)。

基経は、文徳天皇から清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇にかけて、朝廷の実権を握り続けました。

基経は「ゴネ得」人生とも言える狡猾な生涯を送りました。

1.応天門の変(866年)
応天門の炎上に際し、大納言・伴善男が左大臣源信を告発しましたが、基経はこれを怪しみ養父・良房の助力で信は無実となりました。その後、告発した伴善男自身が真犯人と判明。連座した大伴氏や紀氏といった藤原氏のライバル氏族が大量に排斥されたのでした。

2.陽成天皇の補佐を辞退
陽成天皇が元服したことを受け、基経は摂政の辞職を申し出ますが、許されませんでした。すると、基経は朝廷への出仕を停止し、1年半に渡って自邸の堀河院に引き籠もってしまったのでした。

3.老齢の親王を大抜擢
奇行の多かった陽成天皇は公卿会議の決定をもって退位を迫られることとなり、数多いた候補者の中から既に55歳だった時康親王(後の光孝天皇)が推挙されたのも基経のゴネ得です。必然的に基経は天皇の信任が篤く、史上初の関白として政界に君臨することとなったのです。

4.阿衡事件
光孝天皇が崩御すると、その子・定省親王が宇多天皇として即位しました。すると基経は詔に記された「阿衡」という文言に難癖をつけ、1年近く政務を放棄してしまったのでした(その後和解)。


「宇多vs時平」の時代

天皇に即位させてもらった恩のある光孝天皇は基経に最大限の配慮をし、両者は蜜月の関係にありましたが、それぞれの子の世代(宇多天皇と時平)との関係性はそう単純ではありませんでした。

阿衡事件を通じて藤原氏の脅威を覚えた宇多天皇は、学者出身の菅原道真を重用するようになったからです。

道真は遣唐使の廃止など、数々の政治改革を断行しました(寛平の治)が、結局時平に左遷させられてしまいます(昌泰の変)。

ただ、摂関家全盛の時代でも、このように摂関を置かずに天皇が親政を行う時期が断続的に存在していたのです。

延喜・天暦の治の実態
醍醐天皇と村上天皇も摂関を置かず、親政(天皇自身が親(みずか)ら政治を行うこと)を行いました。この治世を「延喜・天暦の治」と呼び、後世にはそれらを理想視する傾向がありました(代表例は後醍醐天皇による建武の新政)。しかし、実際に政務をリードしたのは、延喜期は時平と忠平、天暦期は実頼(ともに左大臣)であり、天武天皇の頃のような親政とは根本的に異なっていたと言わざるを得ません。

宇多天皇はある日突然皇太子敦仁親王に譲位し、醍醐天皇が即位します。

そして自らは太上天皇(上皇)となります(後に出家して法皇に)。

理由は諸説あるものの、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためとの説が有力であり、後に到来する院政の準備期だったと言えます。

さて、「目の上のたんこぶ」だった時平が没し弟・忠平の代になると、宇多法皇は朝廷への影響力を回復させることになります。

醍醐天皇の健康状態が悪化するとその政務を代行するようになり、醍醐天皇が崩御すると自らの孫・朱雀天皇の後見人となりました。

波乱の人生を送った宇多法皇は931年に崩御。宝算65歳でした。

不気味な陽成上皇の存在
退位させられた陽成上皇は長命(949年に80歳で崩御)で、上皇歴65年は歴代1位です(自分より6代も後の村上天皇の即位まで見届けました)。
実は宇多天皇は即位前は臣籍降下しており、源定省という名で陽成天皇に侍従として仕えていた時期がありました(その後基経の計らいでに皇族に復帰し天皇として即位)。陽成上皇もそのことは覚えており、いつ何を言い出すかと、陽成の性格を知っている宇多は気が気ではなかった筈です。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

さて次回は人臣として初めて摂政の座に就いた藤原良房です。

お楽しみに。

いいなと思ったら応援しよう!