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病院薬剤師が語る歴史人物数珠つなぎ 「道長と藤原摂関家」編❺藤原良房
もし薬学の道を選ばなかったら日本史の先生になりたかった私、病院薬剤師だまさんによる、ちょっとマイナーな歴史上の人物を紹介するブログです。
本シリーズでは、摂関政治で頂点を極めた藤原道長を起点に、その祖先から子孫に至る流れをたどっていきます。
今回は人臣初の摂政・藤原良房です。
「摂政」という役職
藤原良房は藤原冬嗣の次男です(804-872年)。
良房は皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就きました。
また、藤原北家全盛の礎を築いた存在でもあり、良房の子孫たちは相次いで摂政・関白となりました。
摂政と関白
君主制国家において、君主が幼少・女性・病弱である等の理由で政務を執り行うことが不可能、あるいは君主が空位であるなどの場合に君主に代わって政務を摂ること、またはその役職(令外官)のことです。
天皇の外戚となった藤原氏の一族は、天皇の幼少期には摂政、成長後には関白の地位に就いて、朝廷の政治を支配しました(摂関政治)。
良房以前
聖徳太子(厩戸皇子)が推古天皇の摂政となったことが有名ですが、これが史上初です。それ以降は中大兄皇子(後の天智天皇)が斉明天皇、草壁皇子が天武天皇の摂政を務めています。良房は185年ぶりの就任でした。
良房以後
その後摂関時代は275年以上続きますが、院政の開始以降、その権限は制限され、外戚となることも稀となり、摂家と呼ばれる数家が交代で世襲していくようになりました。ただ、影響力を低下させたとはいえ、依然として摂家は朝廷の最高官としての権威と一定の政治力を保持していました。
豊臣氏が藤原氏の末裔?
藤原氏以外で摂政となった人物は平安時代から江戸時代までには存在しません。一方、関白は安土・桃山時代に豊臣秀吉とその甥・秀次が就任していますが、これは権力の濫用とも呼べる暴挙でした(苦笑)。
現行法における摂政就任資格者
現時点で有資格者は10名存在し、その順位は以下の通りです。
1位-秋篠宮文仁親王(皇嗣)
2位-悠仁親王
3位-常陸宮正仁親王
4位-皇后雅子
5位-上皇后美智子
6位-愛子内親王
7位-佳子内親王
8位-彬子女王
9位-瑶子女王
10位-承子女王
皇女降嫁が出発点
左大臣冬嗣の次男である良房は嵯峨天皇にその資質を認められ、既に臣籍降下していた皇女・源潔姫と結婚しました。
皇女が臣下に嫁ぐのは前代未聞のことであり、平安時代中頃までに同様の待遇を受けたのは源順子(宇多天皇皇女、一説には光孝天皇の皇女)と結婚した藤原忠平のみでした。いかに良房に惚れ込んでいたとはいえ、嵯峨天皇が皇女降嫁を許可しなければ、良房以降の藤原家が台頭することはなかったかもしれません。
これも歴史が変わった瞬間と呼べるかもしれません。
仁明天皇の時代に入ると、自らの舅で天皇の実父である嵯峨上皇の支援を受けて良房は急速に昇進していきます。
承和の変と他氏排斥
嵯峨上皇が崩御すると仁明天皇の後継者問題が勃発します。
当時、仁明天皇の皇太子には淳和上皇(嵯峨上皇の弟)の皇子・恒貞親王が立てられていましたが、良房の妹順子と仁明天皇の間に生まれた道康親王を皇太子に擁立する動きがありました。
恒貞親王の安全確保のため東国へ退避することを画策した側近・伴健岑と橘逸勢でしたが、計画は事前に露呈し謀反の扱いを受けました(承和の変)。
事件後、良房は大納言に昇進し、道康親王が皇太子に立てられました。
承和の変は藤原氏による最初の他氏排斥でしたが、同時に同族内の政敵(藤原愛発・藤原吉野ら)も失脚させています。
良房は848年に右大臣に昇格すると、ほぼ独裁体制を確立したのでした。
道鏡以来の太政大臣、そして人臣初の摂政に
文徳天皇(道康親王)が即位して間もなく誕生した第四皇子・惟仁親王は、良房と潔姫との間にできた娘・明子の子、つまり良房の孫でした。
惟仁親王が立太子するに当たり、良房が天皇の外戚となることが確定。
良房は、ついに従一位・太政大臣に叙任され、道鏡以来約90年ぶりの太政大臣として位人臣を極めたのでした。
そして文徳天皇が崩御し、惟仁親王が9歳で即位する(清和天皇)と、人臣初の摂政に就任するのでした。
晩年の良房は法制の整備と修史編纂に力を注ぎ、「貞観格式」を公布させるとともに、仁明天皇の一代のみを対象とした「続日本後紀」を完成させています。
師輔編でも紹介したまんが参考書「まんが要点日本史」では、良房だけに2頁もの紙面が割かれています(それだけ重要人物だったということです)。
承和の変(842年)
天皇家に君臨していた嵯峨上皇が死に仁明天皇の後継者問題が表面化した。
伴健岑「恒貞親王だ!」
良房「道康親王だ!」
冬嗣の子・良房はこの機に乗じ、伴健岑・橘逸勢を追い払った。
(筏に乗った)伴健岑「謀反なんかしとらんぞー!!」
(筏に乗った)橘逸勢「良房の悪房~!!」
これが藤原氏による最初の他氏排斥である。
良房、摂政に(858年)
母方の血が重視される当時の貴族社会においては、自分の娘を天皇に嫁がせその皇子を即位させて外祖父となることが、最高権力への近道だった。
(宮中を駆ける)良房「はっ、文徳天皇に、はっ、娘をやったかいが、ひっ、あったってもんよ…。はァっ、でかしたぞ明子!!ひィっ」
清和天皇「おじいちゃん、ボク、天皇になるんだって」
良房「むずかしいことは全部このじいがやってあげるから、お母ちゃんと遊んでなさい」
人臣で、初の摂政だった。
応天門の変(866年)
大内裏正殿応天門が炎上した。
伴善男「この源信が火をつけたのだ。わたしは見たぞ!!」
源信「ち、ちがう…」
良房「いいかげんにしねーか、大納言!盗っとたけだけしいとは貴様のコトだ。フフフ」
伴善男「なに!!」
良房「ヒト様の目はごまかせても、この桜吹雪(!?)はごまかせめー。放火犯、善男に流罪を申しつける!!」
(役人に連行される)伴善男「ちょっ、ちょっとまった…」
こうしてトントン拍子で出世してきた伴善男を排斥した。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
さて次回は薬子の変で活躍した藤原冬嗣です。
お楽しみに。