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「感情移入」という言葉、批評で便利に使われすぎ問題

 感情移入という言葉を批評でよく見る。いわく感情移入できる主人公でないだのストーリーでないだの。

 問題なのは、この言葉が複数の意味で使われているっぽいことだ。話者によって指している事柄が全然違うことがある。

 まあまずは辞書を引いてみようじゃありませんか。

自分の感情や精神を他の人や自然、芸術作品などに投射することで、それらと自分との融合を感じる意識作用。

goo辞書(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%84%9F%E6%83%85%E7%A7%BB%E5%85%A5/#jn-48461)

 なんだかむつかしいことを言っている。

 私の解釈では、小説を読むという文脈の上での「感情移入」というのは、登場人物が悲しい時に読者も一緒に悲しくなることだ。喜ぶ時に共に喜べること。登場人物と同じ感情に自分もさせられること、あるいは感情に乗せられることを指す……と思っていた。

 だが、「より感情移入させるためにはどうすればいいか」という方法論において、よく言われるのは『主人公を苦境に立たせよ』ということなのである。

 ……?

 『主人公を苦境に立たせる』と、なぜ『読者が感情移入』してくれるのだろうか。この『主人公を苦境に立たせる』と『読者が感情移入』の間で、過程をいくつかスッ飛ばしてはいないだろうか。むしろそのスッ飛ばした過程を説明することこそが、感情移入とは何ぞや/いかように引き起こすべきかということにつながるんじゃ?

 そういうわけで甚だ疑問であったために、長年感情移入と聞くたびに耳をそばだてて使い手がどういう意味で使ったのか注意してきたのであるが、最近仮説ができてきたので、整理のためにもここに記録しておく。

外的葛藤と内的葛藤

 結論から先に言うと、感情移入という言葉を使った時、話者の頭には
①外的葛藤のことを言いたい場合と、
②内的葛藤のことが言いたい場合の、
2種類のパターンが存在すると思う。

 どういうことか。

 ①外的葛藤のことが言いたい場合、話者は「誰がどう見てもわかりやすい苦境」に主人公を立たせることを好む。前述の『主人公を苦境に立たせよ』論者はこちらに該当する。

 例えば病気の母親を助けるために希少な薬草を手に入れたはいいが、目の前には苦しむ仲間がいる。使えば仲間は助かるが、病気の母親に使うぶんはなくなってしまう。これは外部へどうアクションを取るかの葛藤だ。さあ主人公はどうする!?

 こういった苦境がストーリーの中にない時、①を思い浮かべながら「この物語は感情移入できない」と言う。そして『主人公を苦境に立たせよ』とアドバイスをする。

 誰がどう見てもわかりやすい苦境ならば、大多数の人間がハラハラドキドキし、主人公は一体どうするんだろうと固唾を飲んで見守るだろう。この状況のことを、①の話者は「感情移入」と呼んでいるからだ。

 次に②内的葛藤のことが言いたい場合、話者は「多くの人間が経験するであろう感情」を主人公に背負わせ、読者が追体験することを望む。辞書的な意味に近いのはおそらくこちらであろうし、読者が「感情移入できた!」と言っている場合もこちらを指していることが多そうだ。

 例えば自分がどうしても欲しかった賞を友人が受賞し、自分は受賞できなかった。友人が受賞したことを喜ぶべきなのに、素直に喜べない自分がいる。申し訳なさそうな友人を見ると心が痛む。それでも笑って祝福することが、どうしてもできない……。これは心の中での葛藤だ。

 ②の話者によるアドバイスは、『主人公に弱みを作れ』や『主人公に感情を喋らせるな』といったものが多い。

 人間誰しも短所があり、そして短所こそ人に共感されたり同情されたりして愛される。わかるよ俺もそういうことあったからなあ、と思ってもらうために弱みを作るのだ。

 また、主人公に感情を喋らせるなというのは、まあ野暮だからというのもあるが、感情を規定しないためでもある。先の受賞の例では、嫉妬で片づけてしまうのは簡単だが、同じ嫉妬でも人によって表出の仕方が違う。そうした繊細な心の動きを限定してしまわず、読者の感動的な追体験を邪魔しないためにも、主人公の心を動かした外枠だけをスケッチし、内部の脆くふるえる感情には触れずにおいて、あえて想像の幅を残す。

外的葛藤がもたらす感情移入の過程

 感情移入の辞書的な意味に近いのは②の内的葛藤の例だが、個人的には①の文脈で感情移入という言葉が使われていることが多い。

 なぜそんなことになったのだろう。

 主人公が苦境で苦しむさまを見て、読者は一緒に「く、苦しい」とはなりにくい。同じ感情にはなってくれない。本来の意味での感情移入は発生しにくいはず。それなのに、なぜ?

 思うに理由は2つある。

 まず1つに、主人公の内的葛藤を状況だけで理解し、共に苦しみ共に泣くのは難しい作業なのだ。読者に高い読解力と共感力を要求する。ゆえに、特に大衆文学の批評では内的葛藤は歓迎されにくい。「誰にでもわかりやすい苦境」である外的葛藤が標榜される理由はそこにある。

 2つ目に、記憶に基づく感情が引き起こされる呼び水は、感情そのものではなく環境や状況にある。トラウマ体験のトリガーが場所や人物であって、例えばライオンを見た時の恐怖が加害者への恐怖には転じないように。すなわち、人は追体験をする時に状況を契機とする

 何が起きているかというと、主人公が苦境で苦しむのを見て「く、苦しい」と思うのではなくて、似たような状況を思い出して読者は個人的に苦しむ

 例を挙げれば、大事なものを病気の母親に使うか目の前の仲間に使うかという葛藤を、極端に言うなら勝手に自分の経験した境遇に置き換えて、お金を最近よぼよぼになってきた自分の親に送るか子供の習い事に使うかという葛藤に置き換える。

 高い読解力と共感力があれば、傍目には内的葛藤が起きるとわかりづらい状況、直感的には置き換えがしづらい葛藤を深く理解し、理解した状況を基に個人的な追体験が発生する。だが、読者にそんなハイコストなことをいちいち求めている場合ではないだろう、それよりもこっちが直前までおぜん立てしてあげなさいね、というアドバイスが、①の外的葛藤を作り出すための「誰がどう見てもわかりやすい苦境」だ。

 ……それか、話者が「読者が物語に夢中になること」=感情移入、だと思っているケース。これも少なからずある。辞書的な意味で言えば誤用だが、誤用とて使われ続ければ辞書に記載される日も来るだろう。いちいち目くじらは立てるまい。

端的なまとめ

 今まで言ってきたことをめちゃくちゃシンプルにまとめるならば、

「感情移入という言葉には複数の意味がある。より読者に親切なのは『誰がどう見てもわかりやすい苦境』で読者が自分のことに置き換えやすい苦境を作り、個人的な追体験への道を舗装してあげることだ。だが多くはこの原理の部分を喋らないので、まるで『苦境』ニアイコール『感情移入』みたいに書かれるようになってしまっている」ということ。

 ううむ……すっきりした。

 ずっと苦境さえ作れば感情移入作れるよ、みたいに書かれるのが疑問だったんだよね。私は別に苦境を見ても一緒に苦しくはなりませんけど……と思うナマイキな読者だもんで。やだね。

 余談だが、例えば子供や動物が苦境に立たされているのを見て「かわいそう! こんなに頑張って……」と涙するのはどっちかというと同情の涙であって共感の涙ではないと思う。子供や犬の気持ちになって泣いているわけではないから。ただこれで泣けたことを「感情移入した」と表現する受け手は割といる。

 感情を投射、とか投影、とか難しい言葉を使うからわけわかんなくなるんだよね。ね~。

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 感情移入と作品の関係については、他の方の作品ですがこちらのnoteも参考になります。興味のある方はドゾ。↓
https://note.com/atssan/n/n3b6d769e77b4


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