つれづれ小説エッセイ ~オリジナリティ①~

 どうしたらオリジナリティが出るのか?

 自分の作品にオリジナリティがない、と悩む人の相談や、批評において「なんかどこかで見たような話なんだよね」と言われているのをたまに見る。

 言ったほうはそれで話が済むので簡単かもしれないが、言われた方は「オリジナリティってなんだよ!?」と頭を抱えないといけない。場合によっては何年も悩まなくてはならないし、それで書けなくなるかもしれない(未来の私も悩むかもしれない)。それは少々、不毛である。

 人それぞれの「オリジナリティとはこれだ」という答えがあるかもしれないが、今回は私の現時点でのオリジナリティに関する考察を書いてみる。オリジナリティ症候群で筆の鈍る人が、少しでも減るように……。


 突然だが、介護の世界では「最後までその人らしく」という考え方が大事になる。

 その人らしく、とはどういうことか。

 これは個人の嗜好や習慣、意志を尊重するということだ。元気な時に何を好み、どういった習慣を持ち、どんな最期を迎えたいと思っているか。

 広く言うのであれば、これも『オリジナリティ』には違いない。言い換えれば、ワタシは何が好きで、どういう傾向がある人間で、どういう決着をつけたいと思っているのかということだ。

 畢竟、自己分析に落ち着いていく。ここが本当に難しい。

 恥ずかしい話だが、私はひねくれた人間である。嫌いなものが多く、よく憤る必要のないものに憤っている。

 小説を読んでいても「ここはもう少しこうなればよかったのに……」と思っていることが多い。私は(自分の底の浅さを露呈することになるので本当に恥ずかしいのだが)、自分が心から全てを賭して愛することができる小説を持たない。

 だから自分で書くしかないと思っている。もっと古今東西の小説を読み漁ってから文句を言えオロカモノという話なのだが、書く方にどうしようもなく食指が動いてしまったのだ……自分を満足させる小説なんて、自分で書いた方がはえーわと思ってしまったのである。作者に文句を言うよりもね。

 ただ気づいたのだが、「もう少しこうなればよかったのに」はオリジナリティを探る立派な材料である。気に入らないものを見つけた時、対岸には『好き』が潜んでいる。突き詰めていけば、何を好み、どのように物事を進めたがる傾向があるのかがわかる。

(そりゃ私だって好きをストレートに見つけられる素直な人間でいたかった……好きなものを見つけられる人はもう本当にそれでいいと思うので、好きをどんどん収集していってください……)

 閑話休題。

 もう一つオリジナリティのヒントになると思うのは、人生である。

 私は小説を面白くするためならば、自分の人生を薪にしてジャンジャカくべるべきだと思っている。自分が人生をやっていて、人と関わっているときに感じたこと、出来事に遭遇した時に思ったことなんかを、混ぜ込んでいくことで、オリジナリティにつながると思う。

 実感が伴う記述は、熱量が違う。もちろん作者が作品にしゃしゃり出ないように注意せねばならないが、自分が強く感じたこと、伝えたいことには、思いが乗る。これが良い「尖り」になる。

 作品を書くモチベーションには色々あるが、私は先述の通りよく憤るので、『怒り』が作品に向き合い、完結させるためのエンジンとなってきた。数々の理不尽を思い返しては、ええい見返してやれ! という気持ちでいるから、途中で気持ちを燃やせる部分があればどんどん燃やすし、作品を世に出すまであきらめない。これを書かねば死んでも死にきれないのである。

 どういった場面でどういう感情を抱くのか、何を燃料に走ることができるのか、というのは、実は結構その人らしさが出るものだと思う。

 卑近な例を出すと、拙作に『徳華(ダックヮ)』というキャラクターがいる。彼は東龍慶(トゥンロンヒン)という街で、居場所のない人間に住む家を与えてやるということをしている。

 この設定が出来た時、私は幸運なことに、どうしようもなく物理的な居場所がないという経験をしたことがなかった。

 だがある時、引っ越しをする際に、保証人が必要ということになった。人によっては親に頼むと思うのだが、私は親に引っ越し先の住所を知られたくなかったし、そもそも親の肩書は『会社員』ではなく『パート・アルバイト』なので、保証人としては弱いということがわかった。家賃保証会社に頼むにも費用が必要になるが、そんな金はない……。

 結果的に何とかなったのだが、まあ当時は打ちのめされたものだった。金がなく、頼れる身内を持たない者は、家も借りられないのか。親の社会的な信用に、なぜ遠く離れてからも首を絞められなければならないのか。

 こんなことまで自己責任だと言われなければならないのか!?

 頭が真っ白になりながらシャワーを浴びている時に、ふと「ああ徳華がやっていることはこういうことなんだ」と思った。あそこには、金も頼れる身内も持たない人間がいる。彼が守るのは、そういった人々の頭の上に、何も聞かずに雨風しのげる屋根をかけてやれる居場所だ。

 徳華……めっちゃいいやつじゃん……。

 そんな経験があったおかげで、東龍慶という街を、徳華という男を、情熱を持って書くことができた。一種の成功体験となっている。


 1本で終わらせようと思っていたが、長くなってしまった。続きは次のnoteで書こうと思う。

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