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つれづれ小説エッセイ ~不自由さ、の面白さ~

 文章だけで面白さは作れるのか?

 文章は不自由な媒体である。

 使えるのは文字だけ、というのがまず辛い。基本的には白と黒の二色。地味だ。

 音はない。文字は歌わない。

 動きもない。文字は踊らない。

 情報過多の現代社会において、情報量が相対的に少ないものはツマンネ! とポイ捨てされる運命が待っている(過言)。

 本当は自分の作品がアニメになっているのが見たいんだけど、小説で甘んじています、という人もいる。文章ならすぐ書けるから。

 んまあいい、それは。

 今回は文章の不自由さが持つ面白さを考えてみる。

 文章だけで超ド級スペクタクル・ザ・ムービーを目指していきたい。

 まずこの文章のカタマリと

『ハンマースホイ翻案』より

 この文章のカタマリが

『カンディンスキー習作』より

 それぞれ持つ印象は違うと思う。

 また言葉の使い方一つ、語尾の使い方一つで、受ける印象が変わる。

 例えば『甘い香りがした』と書くのと、

『甘美な芳香が鼻腔を擽った』と書くのはだいぶ印象が違う。

ちなみに「くすぐった」と読みます。私は変換してみて初めて知りました。

 改行のタイミングもそうだ。私は三つ前の段落で、わざと改行をはさんだ。例文を縦に並べたほうが、横に並べるよりわかりやすいと思ったからだ。

 ※一応横に並べてみますね。

 例えば『甘い香りがした』と書くのと、『甘美な芳香が鼻腔を擽った』と書くのはだいぶ印象が違う。

 句読点の打つタイミングでも、印象が変わってくる。この上の文章、横に並べるなら読点(、)はないほうが見やすいかもしれない。

 漢字を開くかどうかでもだいぶ違う。
 「ありがとうございます」を「有難う御座います」と書いてあるのを見たことがあるだろうか。途端に仰々しくなっている。

 一つ一つの差は軽微だが、重ねることでバタフライエフェクト的に印象がガシガシ変わっていく。

 これが暗黙のうちに行われる。言葉で情報を伝えているのに、言葉になっていない情報も少しずつ脳に浸み込んでいるのだ(この『浸み込む』という表現も、沁み込むと染み込むとでは印象が変わりますね)。

 読書は、個人差はあれど、比較的長い時間ヒトの人生を奪う。バラバラと印象の種がまかれ、いつのまにか葉をもたげ、やがては人生に根差していく。葉脈のような権謀術数が、モノクロのコントラストの中でとぐろを巻いている。

 私が文章の面白さを、なにかの陰謀あるいはゾワゾワさせるようなものとして感じてもらえるよう誘導してきているのはわかってもらえたでしょうか。

 こういうのが面白いんですね、文章は。

 まだたくさんあると思うので、一生かけて探していきたいもんです。




 今回画像で載せた小説はこちら↓

 どちらも好きな画家の名前です。


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