つれづれ小説エッセイ ~推敲~
小説を書くという一連の行為の中で、私が最ものっぴきならないことだと思っていること。
それが『推敲』だ。
大切なことだというのも知っている。
奥ぶか~いことだというのも察している。
でも、どうにも、こうにも、ああどうしようって感じ……なんだよね……。
あまりにむつかしい作業なので、作品ができた直後は推敲から逃げることにしている。
しばらくしてから、どっこいせと戻ってきて、作品を見る。
直すべきところが無数にある。
なんで書いている時はここの違和感が気にならなかったんだろうか。
己の迂闊さと向き合う時間である。
つらい。
ちま……ちま……と直していく。
たまに恥ずかしい誤字を見つけて発狂する。
短編はまだいい。
長編なんて10万字近くある。
語句の修正で何とかなる程度の問題ならまだいい。
展開を直したくなった時なんて答えの出ない謎かけが始まる。
推敲の難易度を上げているのは、自分では「直した方がいい」と思ったところが、読者にとってそうとは限らないところである。
自分がインディーズで読んでいた作品が商業化されたとき、修正が入っていることはよくあるが、削除された箇所が自分の好きなポイントにドンピシャだったことも悲しいことによくある。
推敲の際には、作品のクオリティを上げること、自分の本能に従うこと、読者の声に従うこと、これらの優先順位のない価値基準のどこ寄りに修正していくかが毎度求められる。アップグレードしたからといって、必ずしも良いものになるとは限らない。
推敲は賭博の一面を持つ。今直したこの表現が吉と出るか凶と出るか。これは本当に改善か?
何が『良い』ものかは、結果が出てみないとわからない。しかしその発表は一生のうちに行われるとは限らないと来たもんだ。
また同時に、推敲には時間経過によるワナがある。
作品を書いてから一定の時間が経つと、その作品を書いていた当時の自分と、今の自分の思想だの趣向だのが離れすぎてしまう。
すると何が起こるかというと、「1から書き直したい」という衝動に駆られるようになるのだ。
もうこの作品はどんなに手を尽くしたって駄目だから、という手遅れの患者を見る目になる。
んなこたないはず……たぶん。
そう思って抗っていると、さらに時間が経つにつれて「これはこれでアリ」という気がしてくる。
落ち着いてみると、賞味期限を逃して腐っていたのではなくて、発酵食品だったことがわかる瞬間とでも言うべきか。
やっぱり当時の自分が何かしら面白いと思ったことを書いているはずだから、あとになってから読んでも刺さるものがある。
これだから難しい。時間経過によって、思うことが違う。
読み手によっても思うことが違う。
だからむつかしい。のっぴきならないのだ、推敲は。
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