会社を「さん」付けして呼ぶの、やめてみませんか?
フォレスト出版編集部の寺崎です。
日本では「フォレスト出版さん」というように会社名に「さん」を付けて、まるで会社が人格化したような呼び方をするのが一般的です。
これって、とても丁寧なコミュニケーションのように感じますが、こういう文化こそがイノベーションの妨げになっていると主張しているのが、ユダヤ文化に造詣の深い石角完爾さんです。
それはいったいどういうことなのか。
以下、石角完爾さんの著書『ユダヤ 賢者の知恵』からひもといてみます。
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会社を「さん」付けで呼ぶ国に
イノベーションは生まれない
日本では古くから「お稲荷さん」「弁天さん」「お釈迦さん」と神仏に親しみをこめて「さん」付けして呼ぶ、神仏の擬人化現象がみられる。ところが、最近では企業組織体に「さん」付けして呼ぶようになった。この場合、親しみを込めてというより、尊敬を示す「さん」付けである。
「会社」への「さん」付けは、さらに「会社」を神社と同様に神聖なる場所という意識を日本の企業文化に植えつけている。
会社に「さん」を付けて呼ぶ。おそらくこれは日本だけの会社文化ではなかろうか。
恐らくこの違いがユダヤと日本の違いの中で最も際立つものの一つ、つまり意思決定のスピードの違いに影響してくるのだ。
日本では会社に「さん」を付けて呼ぶように会社に人格があり、その人格のある「会社様」が本社という聖なる場所に存在している。取引先や下請け、セールスパーソンなど、その「会社様」より序列の低い人間は「会社様」のおわします本殿(本社)に来て挨拶(お参り)するべきだという意識になる。
まさに会社の神格化だ。
会社の「さん」付けは
熾烈なイノベーションの世界では
圧倒的に不利
ユダヤは会社には人格や神格など求めない。そもそも人は神格化しない、ましてや法人は人格化も神格化もしない。ユダヤの一神教とは人も法人も神格化しない宗教なのだ。
社長も含め、担当者同士がウェブ会議で会えるなら世界のどの都市でもさっさとウェブ会議で会う。ウェブ会議だからその時と場所は関係ない。世界は早く動いているから、特にビジネス、イノベーション、技術の世界はすべてが早く動いているから、となる。
会社人格主義・会社神格主義は「お前が会いたいと言っているのだから、俺の会社様のおわします本社に来い。それが礼儀というものだ」ということだ。
「俺の本社様」「俺の会社様」。神様の本社詣でということになる。
ユダヤ社会では会社に「さん」を付けて呼ぶという法人人格化、ましてや会社神格化はまったくみられない。
したがって、本社の応接間が何らかの意味(会社様への謁見の広間)を持つということもまったくない。
会社を「神格化」する日本の会社の差別構造
私がアップルのスティーブ・ジョブズに会ったのも、他の社員がいっぱいいた社員食堂だ。お互いにトレイに昼食を載せながら「ハイ、スティーブ」という感じで、向こうもT シャツ、私もT シャツ。別に本社の社長室でいうことはまったくなかった。
これに対して日本は会社を「さん」付けで呼ぶように、会社に人格を持たせ(会社人格化)、その人格に対して崇拝、尊崇の念を持つ、または示すこと(会社神格化)を社会的序列の低い人間(下請け・取引先・セールスパーソン・そして社員)に要求するというものである。
日本の会社はこうして会社が人格化・神格化したために儀式儀礼のために時間がかかる。
各部課のハンコが連なった稟議書の最後に、一番偉い人が大きくて立派なハンコを押す儀式は象徴的である。
恐らくこうした非合理な面が、イノベーション・スピードの恐ろしく早い分野で後塵を拝する姿と重なっていっているのだろう。
ユダヤではPDFでサインを送れば一瞬で契約成立だ。
ユダヤでは新型コロナ騒動以前から、PDFをオンライン交換するテレ・シグネチャーでやっている。
ハンコを押させるためにコロナ・リスクを冒してまで出社させる社会は、「白人」が「黒人」を差別する社会と同じで、「会社様」と「社員」を差別する社会であろう。
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会社(組織)は社員より偉いという意識は、日本人にはどこかにある気がします。だから、目の前の相手が所属する会社を「さん付け」しないと失礼な気がしてしまう。
でも、それは明らかな差別であり、イノーベーションの弊害になる、というのが石角さんの指摘です。
ちょっと考えさせられますね。
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