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俺の名はマイナス:1

My Name Is Maenad.

マイナスは「わめきたてる者」を語源とし、狂暴で理性を失った女性として知られる。彼女らの信奉するディオニューソスはギリシア神話のワインと泥酔の神である。                            マイナス (ギリシア神話) Wikipeadia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%B9_(%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%A5%9E%E8%A9%B1)

太陽光。

無惨にも黄色く焼かれた石煉瓦が、アーチ型に積まれた古代の橋。
遠くに影のように見える、荒野から吹き付ける熱波に浸食された建造群。時と共に輪郭は丸みを帯び、曖昧で、滑らかで有機的な形状へと変化している。全てに境目のない流線型の砂丘に、いつか全ては還っていく。

サンダルを脱ぎ捨て、素足で踏み出した足裏の感覚は、思いがけなく硬質で、ざらりと熱かった。砂埃の積もった欄干に背もたれながら革靴に履き替え、橋を渡って向こう岸へ行く準備をする。橋の向こう、つまり今僕の目的地である「向こう岸」は街の中心へとつながり、そこには本日の目的地、中央広場がある。橋の欄干にもたれると、眼下の川底は乾季のため干上がっている。水がないので橋を渡らなくても向こう岸へ行けることは確かだが、この国では橋を渡ることは儀式として捉えられている。魔術的な意味で、橋を渡らずに向こう岸へ入るのは硬く禁じられている。橋の中央に立つと左右ともに遠く荒野が見え、そして僕の背中側には深い森がある。かつては、あらゆる場所が森であったそうだ。

この国の伝承によれば、かつて大気はもっと潤いを含んでいた。森が荒野の浸食を許したのは、改宗と天然資源の開発が始まって以来のことだ。新しい文明の訪れと共に、犠牲の血を供物にしながら森が食い荒らされる。そして荒野では、風に乗って精霊達が失われた森を求めて泣き叫び、その叫びは荒れ狂う熱波となって街へと押し寄せる。だから荒野から吹く熱風を人々は忌み嫌い、解消されない罪悪感を抱えながら生きている。森を失い続ける彼らは、自らを森に呪われた存在と呼ぶ。

そう、この国、この街はーー呪われている。

改変された宗教も、文明の到着によりデザイン再編された西欧風の街角も、荒れ狂う森の精霊の熱波攻撃によって、有機的な輪郭をもつ廃墟へと変わっていく。その廃墟じみた街角では、スペイン語と土着言語が融合したD語が使用される。カトリックと伝統的世界観が混在するD特有の宗教ミサでは、司祭兼シャーマンによって儀式が執り行われる。バチカンから遠く存在するが故に土地の精霊の力を借りるとされる司祭シャーマンの、その力をもってしても荒野の侵攻と呪詛を消し去ることは未だ不可能だ。

乾いた空気が運んでくる砂埃から自分を守るため、首から顔全体に巻きつけた灰色のスカーフを目元まで引き上げる。街から出るといつもこうだ。息苦しい。高温多湿の日本から来た僕にしてみれば、これは未知の息苦しさだった。息をするたびに、喉が焼かれるような感覚があってヒリヒリする。橋の上に立つと左右の荒野から熱波がもろに吹き付ける。焦がされようとする皮膚の表面から、瞬時に水分が蒸発していくのを感じる。現地の人々は特製のクリームを肌に塗り込んで、陽には焼けても滑らかな肌を保ったままでいる。クリームを買って、身体に塗っておくべきだった。保湿力が強いのだろうか、あのクリームは、現地の人々が精霊の実と呼ぶものから出来ている。D近隣でしか見つからないサボテン科の植物がむすぶ実が、そう呼ばれる。香りはココナツに似ているけれど、香料を入れているのかもしれない。明日からは必ず、クリームを塗ってから外出すると決めた。そうでもしないとミイラにでもなってしまいそうだ。そもそも、この時間に外出するのはこの国では普通ではない。肌を守るクリームがあっても、多くの人は日中決して出歩かない。彼らは、寝ている。

それにしても、この暑さだ。夜行性のほうが確かに合理的に思える。昼は、蜃気楼に揺れる荒野の採掘現場以外では、何も動きがない。商店もカフェもレストランもシャッターが下ろされ、犬猫も出歩かない。静かに、注意深く太陽光を避けるかのように、街中が眠っている。今日この時間、この橋の上には、僕とその影以外は誰もいない。

僕が今日、日中に街の外に出た理由は、Dに関する情報をネットで探していたときに読んだ、あるドイツ人のブログのことが頭にあったからだ。

その人物は文化人類学を専攻する大学院生らしく、研究テーマとしてDの宗教観を調査している。Dに在住しながらフィールドワーク・ノートを書き込む間の趣味として、Dに関するあらゆる詳細な情報をブログにアップしていた。最後の書き込みは去年の日付だったけれど、英語、スペイン語、日本語での情報を探していた僕がネット上に見つけたなかで、彼の情報は最新かつ詳細、多岐に渡って非常に有益だった。D国語は分からないし自動翻訳も対応していないので、D語での情報は探しようがない。でもそのドイツ人のブログは英語で書かれており、簡単なD語での挨拶等の有益なセンテンスを音声表記にして、英訳と共に紹介してもいた。

現地では英語は通じない。D語でなければスペイン語が多少通じると分かったのは収穫だった。子供の頃、数年の間を英語圏で過ごし、第二外国語でスペイン語を専攻した僕が安心できたのも、彼の情報のおかげだ。専門のガイドブックは見つからず、ロンリー・プラネットでさえ周辺諸国のおまけのように、コラム欄程度の扱いだった。ネットでも殆どのD国に関する情報は、西欧文明による過去の虐殺の歴史と、企業誘致による天然資源採掘が引き起こした環境破壊についての言及に留まり、そこからは、先進国に住む僕らの潜在的な罪悪感を煽るような匂い以外は、何も収穫がなかった。つまり、情報としてはまったく頼りないのだ。

僕はネットの海でようやく辿り着いたその、dogstarと署名されたドイツ人のブログに書かれた情報を信頼し、それを元に、旅のプランを立てた。3晩かけてそのブログのエントリーを隅々まで読むと、いつのまにか、僕はDの宗教的世界観を理解できているような気分になった。その奇妙な生活や習慣に魅了され、好奇心が確信となってくれたおかげで、意味もなく不安になることなく、僕はこうしてDに辿り着くことができた。
情報は、たしかに力なのだ。

さて、dogstarのエントリーに書かれていたD国は、昼夜逆転の逆さま世界の人々の暮らしだった。

日中荒野から吹く風を怒れる精霊の呪詛だというけれど、その時間に彼らが眠るのは、呪詛を防ぐという理由からではない。それは「もう一つの現実」と認知されている「夢」の中で、精霊に祈りを捧げるためだという。夢の中では、現実には失われてしまった森が、未だ存在しているという。この国では不信心者だけが、祈りの時間の目覚めを許されている。不信心者とは、つまり採掘現場で働く人々や僕のような外国人、余所者のことだ。

そのブログのなかで、僕が一番好きなエントリーについて。
ある日、dogstarは夜明け前に森へと向かった。タクシーの運転手はもうすぐ祈りの時間近くの時間に仕事をするのを嫌がったが、倍の運賃を約束すると、渋い顔ながら森へと車を飛ばしてくれた。ドアを閉めた瞬間にUターンして走っていくタクシーを見送り、薄暗い森の入口にdogstarは立っていた。

森の中を20分ほど歩くだけで、方向感覚が消え、原始の濃い大気が彼の体を包み込んだ。乾き切った外とは違い、まるで水の中を歩いているような、または宇宙服で月の上を歩くような感じで、水を含んだ森を彼は少し散策し、迷い込んで戻れなくなる前に、また入り口を探した。入り口付近では乾いた空気と湿った空気が交差して気流が生まれていて、彼はその近くで横になれるスペースを探す。しばらくして見つけた、森の端を守るように生える大きな樹の根本で寝袋に入り、彼は眠ってみた。夢についての記述は、そこになかった。
数時間後、燃え盛る炎で頬を叩かれたような、強烈な光と猛烈な暑さに起こされた彼は、目を擦りながら森を背にして街へと歩き出す。そのとき、街に入るために渡った古代の橋の上で、採掘現場の方向から「精霊の咆哮」の響きが聞こえてきた。その途切れることのない断末魔を聞きながら、dogstarは無人の街へ戻っていった。

僕は精霊の声をぜひ聞きたいと思い、その頃にはすっかりdogstarに心酔していた。イカれた世界の地球の裏に住む人々の暮らしを描写する、几帳面な記述。シンプルな言葉で綴られた文章からは、誠実で暖かい人柄が感じられる。そんな気がする。精霊の鳴き声を聴きながら無人の街まで歩くなんてアイデアも、めちゃくちゃカッコいいから僕もやりたいと素直に思った。

そして、今。
橋の上からは、遠く陽炎となってゆらめく採掘現場からの機械音が、キーン、オオーンと叫び声をあげて、熱波のゴウゴウと耳元で響く音と混じり合う。確かに、実に恐ろしげな怪物の咆哮のようにも聴こえる。

これを「精霊の呪いの咆哮」と表現するセンスは好きだ。でも、本当にここまで来て聞くほどのものだったか、わからない。とにかく暑い、干上がって死んでしまいそうだ。ようやく近づいてきた街の輪郭が熱気に煽られて、ぐにゃぐにゃと曲がって見えてきた。ああ、意識飛びそう。

ジーンズの尻ポケットに忍ばせていたフラスクを取り出す。これには「気付け薬」が入っている。もちろん、dogstarのブログ情報のおかげで手に入れたブツだ。

フラスクの中身は、D国特有の植物を漬け込んだ薬草酒。アルコールとは別の、強い酩酊感を引き起こす植物の抽出液だ。シャーマン司祭達は、伝統として儀式にこの植物を使用する。かつてDはシャーマンの住む森として知られた地域で、全ての住民はシャーマンだったと言われている。Dはむしろ地域と呼ぶほうがふさわしいほどの小国で、人口も極めて少ない。それでも国としての体裁を保っているのは、国土のほとんどを占める広大な森の下に眠る、天然資源によるものだ。コロンブスのアメリカ大陸発見以来の血みどろ殺戮劇とイデオロギー闘争に対しても、この国のシャーマン達は一丸となって魔術戦を行い、そのおかげかD国は、近隣諸国よりは若干マイルドな形で西洋文明の蹂躙を許した。そうして土着信仰は巧妙に、より深くへと沈んでいって、新しいシンボルの下へ古代からの意図が隠されたのだそうだ。

つまり、いま街に住む人々はシャーマンの子孫ということで、彼らの教会にいるのはシャーマン、パン屋でパンを焼いているのもシャーマン、カフェで給仕するのも、窓の砂埃を拭いているのもシャーマンなのだ。夜に暮らす彼らは、昼は夢という現実世界で、失われた森の精霊達を鎮めようとする。日が暮れる頃に目を覚ました彼らは、完全に夜になると薬草酒で酩酊しながら社会の一部として働く。そうして生きるとは世界を振動させることに他ならず、彼らの暮らしは世界の歪みを治している、のだそうだ。

D国において「不信心者」という単語の本来の意味は、精霊を鎮める力を持たない者、だという。そこから転じて余所者を意味するようになったわけだ。シャーマンではない、僕のような者。つまり薬草酒が僕にシャーマニックな力を与えることは多分ないだろうが、そんなことは関係なく、とても気に入った。ギリギリ青臭さになる寸前のフレッシュな感じと、微かな苦味と強い甘味。味が気に入ったわけじゃない、この酩酊感だ。2口も含めば、たちまち意識がクリアになって、身体中に高揚感が満ちる。ぶっ飛べる。

 《D国(ディーこく)、通称Dは、南アメリカ中央部に位置する小国である。国土のほぼ半分は森、残り半分は天然資源採掘現場の開発計画により荒野となり、その環境破壊が問題視されている。首都はD。公用語はスペイン語に土着言語が独特に融合した、通称D語と呼ばれる言語。都市部は中央に走る川によって隔てられ、右岸では歴史的建造物の並ぶ西欧風の街並み、左岸はスラム、貧民窟が広がる。強烈な直射陽光と荒野からの熱風による急激な建物老朽化は、貧困と並びDの大きな社会問題となっている。観光地としては極めて不人気。環境破壊問題のため資源採掘産業に陰りが見えはじめた昨今、GNPは減少を続けている。D人は古来より独自の信仰体系を持ち、十六世紀以降になると、キリスト教に土着宗教が融合されたD教が確立される。その全体像はいまだ不明点が多く更なる研究が求められるが、極めてシャーマニックな信仰体系といわれる。》


あらゆる街角に、柔らかな月の光が降り注ぐ夜。
再液状化した大気が世界に満ちる。湿った空気が身体を潤す。生命に水が巡りだし、あらゆる回路に体液が満ちるようになる。鋭い叫び声と破裂する笑い声、何脚ものグラスが打ち鳴らされる音、即興で奏でられる高速で自由な旋律、突如として展開される美しくも物悲しいメロディが、再度転調して数学的な展開へと拡がる。民族音楽だろうか。でも、その時に民族楽器が気まぐれに奏でたのは、実のところ衛星を経由して届けられたばかりの、グローバルチャートナンバー1のポップ・ソングのメロディーだった。

ここでは夜が、人間の時間。日中は精霊達の時間と考えられている。昼は精霊達が風に操って世界を揺らす代わりに、夜は明け方まで、人間達が世界を振動させる必要がある。騒ぎ立て酩酊することで、人々は祈る。音を奏で喧嘩して殴り合い、叫ぶような笑い声からセックスしてガラスを割り、そうやって怒れる精霊を鎮め、彼らは暮らし祈り続ける。
新たな世界がやってくる、その時のために。

明け方を過ぎて太陽の力が増してくると、荒野では急激な気温上昇のため熱波が発生し、その燃える風は進むごとに全てを焼き払う。灼熱の暴風が襲いかかる頃には、街の外側に建つ家々に嵌められた分厚い窓ガラスが、がたがたと音を立てて揺れる。街は中央を流れる水のない河によっても隔てられ、特権階級の住む地域は右岸と呼ばれる。その中にも、不信心者たちは多く存在する。すべての民がシャーマンでなくなったのは、資本主義の侵入を許し貧富の差が拡大してからのことだ。だが不信心者であろうと、彼らも日中に起きていることを嫌がりはする。採掘現場で作業する人々も、国際企業を誘致した政府高官も、誰も精霊の話はしない。ただ彼らの富の代償として受け取った厳しすぎる自然環境を、まるで余所者である僕らと同じような言葉を使って、違和感を説明しようとする。

 「説明はできないけど、なぜか嫌な予感がするんだ」

それは国の行き先に対しての不安なのか、精霊の復讐に怯えている言語化できない気持ちなのか、分からない。真の不信心者である僕には、多分考えても意味がないのだと思う。

(つづく)

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