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見知らぬ人の死の夢

夢を見た。

特売会場のような感じ。
長い列に並んでいて、その様相は押し合いへし合いというような体で、ダウンジャケットやコートを着ている人が多かったので寒い時期のようだった。ぎゅうぎゅうと押し合いながらジリジリと前へ進んでいく中、突然後ろから重力がかかり、耐え切れないほどのしかかられて、私は助けを叫ぶ。「助けてください!」「すいません!」満員電車の中で痴漢をされた時と同じで、その時はのしかかる誰かを不審者としかおもってない。助けを求める声を聞いてフ、と行列に隙間が空き、私は倒れるように行列から外れたのに、ググッとさらに重みがかかって、私はぎゃあ!とパニックして重みから逃れようと、「助けて!」と体をよじった。すると、ドサ、と黒いダウンジャケットを着た男性(体格が良い)がスローモーションで前のめりに倒れ込み、床に横たわる。きゃー!という悲鳴、どよめきの中、私は驚いて立ち尽くし、周囲の数名が倒れた方を取り囲むと、どうやらその人はすでに亡くなっていることがわかった。

行列の中で偶然にも前に並んでいた、という関係性以上何もない自分は驚愕しか覚えておらず、その突然もたらされた死の重さというのも、物理的身体的に感じていた重力、列に並んでいた時に感じた後ろからの覆い被さるような重さしか理解できない。それが誰何なのか、というナラティブもそこにはない、突然現れた死という現実。(夢だけど)

そして次の場面では、その世界の習慣なのか、コインに色とりどりの組紐を付けたものを死んだ人にぶつける(豆まきのように)役割の人が現れ、亡くなった方(依然としてダウンを着たままうつ伏せで放置)にコインをぶつけようとするけれどなかなか命中せず、すると「こんな時はたくさん投げてみんなで拾うのがいい」と言ってばら撒き出した。それをみんなワーきゃー言いながら拾っていて、私はそれを「これは死者のためのものなのに生者が拾っていいのか?」と疑問に思って、偶然隣にいた神社仏閣に詳しい人(さすが夢)に聞いたりもしたけれど、拾っても良いらしいとのことで一応拾ってみたけれど、まるで奪い合いの程で、薄い緑色の組紐が外れたコインを持ってみても違和感でなんだかしっくりこない。

まあ、そのあとも夢は場面を変えて続いていくんだけども割愛。

こっからは現実の話。
9月22日秋分の日、大変インパクトのある1日を過ごし、そこから1日経って、深夜突如として体内に入り込んだ冷気・邪気がシュウシュウと噴き出すように抜け出るのを感じ体がガタガタ震え出した。そこからグンと熱が上がって、身体中でゴミが燃やし尽くされていく。まあそれって風邪引いただけじゃんってツッコミはさておき、自分の体感的にはそう感じていた。身体のゴミが燃やし尽くされると同時に、心のゴミも燃やされていく過程にあり、疑問に感じたことを夢で教わることが多いのだが、この「予期せぬ日常に訪れる死の(物理的な)重さ」という夢は、私が根源的に恐れていることの象徴というのがはっきり分かった。

夢ではだいぶマイルドに表現されていたけれど、私が最も恐れているのは身近な人の死、だ。自分自身の死よりも恐れている。それは過去に、身近な人の死をうまくプロセスできず、自分をぶっ壊した経験があるからだ。そしてこうやって言語化して恐怖を見つめようとしてみると、その時の自分と今の自分は当然ながら全く違う、というのもわかる。私の恐怖は過去の経験に基づく推測で根拠がないものだ。それが、今両親と共に暮らしていること、確実に誰へも平等にやってくる死に(私より)向き合っている人々、と共に生活することで、一人で暮らしている時は忘れることができた「身近な人の死」を意識せざるを得なくなっていたようだ。

私は自分に言い聞かせる。

それはいつか起きることで、私はそれを(今から)恐れる必要はない。

見知らぬ誰かの死、それくらいありふれた突然の出来事なのだ、死は全て。生まれては死んでいき、死んでは生まれていく。そこに物語を付随させていくのは愛の作業であり、関係性と想いの深さである。今生ではもう会えないのだ、という切なさ哀しみは愛があれば当たり前のもので、死そのものに対する不条理さ、憤りというものも突き詰めれば愛の物語に起因する。死そのものに愛を持って挑んだオルフェウスでさえ、最後は「不安」という愛による物語にて妻を永遠に失った。愛情の方が、死よりも余程残酷で不条理で容赦がない。それが、人類の「生」に課された物語だから、私たちは有史以来変わらない物語を綴り続ける。

そして、組紐付きコイン投げの場面もまた、色々な解釈ができるけど、一つは生存競争というか、コインに群がる人々は受精を夢見る精子たちのようだとも感じた。あるいは真逆で、餓鬼。満たされることのない欲望としての死者、というイメージが被せられた生者たち。いずれにせよ私たちは、生を受ける前も後も、確実な意味で感知することはできないし、それは実に個人的な領域だと思う。コインがもし「死を通じて生を受け継ぐ」象徴だとすれば、私はコインを持った時の違和感から、「生命としての割り切れなさ」を持って生きてるんだなあとも改めて自覚した。これはまた別の話になるので、改めて書こうと思う。

普段全く風邪とか引かないし、久しぶりに寝込んだので新鮮な気持ち。食欲が落ちることなんて全くないので、好物が美味しそうに見えないなんて不思議だ。というのも、消化器官が弱っているのか今はお腹に優しいものしか食べることができない、というか、全く美味しそうに見えないのだ。消化が難しそうなお肉など、どんなにテリッと魅力的な姿をしていても却下。普段気にも留めないお粥や、クタクタに煮込まれた野菜などが輝いて見える。こうなった原因としての冷気を体に溜めすぎたというのも、すごく反省している。環境が変わったのに、沖縄にいるときと変わらないスタンスでいた。全然無自覚だったわね。悪いことしちゃった(じぶんに)。

まあそれで一応のまとめとしては、みなさん誰もが死にますので、この唯一無二の身体を本当に慈しみ大切にしながら、周囲の大切な人々を可愛がって死ぬまで生きましょう。みたいな感じで。

ごきげんよう。


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