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長崎カステラの特徴のひとつは、底のシャリッ! 感触の秘密
「手技」というのは、作業者の身体動作をいう。
それに対して、「手業」という場合は、作業者の精神作用を含めたものをいう。
どう違ってくるかと言えば、技能承継に際して作業者の動作を録画したりして、その動作を忠実に再現できれば「技」は承継できると考える立場がある。(三輪測範製作所)
納得するところがあります。
『福砂屋 手わざ』栞(しおり)
寛永元年(1624年)創業…
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五項目の内容はどこも端折れ(はしょ)れない。
読後のカステラの味は重い…
2/14 外国で仕事をする子どもから福砂屋のカステラが届いた。
はて?
ヤマト運輸のアプリからも連絡がある。便利すぎて頭が回転するのは後手後手…
いつもはパクパクと食べてしまうところ、あまりにも丁寧なパッケージと子の計らいにいささか感動もあり丁寧に解いて文字数の多い説明書を読んだ。
長崎カステラの2つの店について文明堂のカステラは1900年創業で、福砂屋は1624年創業。
文明堂のカステラはハチミツを使用していて、あっさりしていて底面のザラメ感はさほど強くなく、卵感は少し軽めになっているようです。
検索した2店の比較です。
底(画像)のシャリッとした感触の話…です。
「双目糖の角をすりへらしながら生地になじませ、その一部を沈ませて底のほうに残すという…懐かしい風味を守り続けています。」
"手わざ"より
ざらめ(双目)糖【ざらめとう】とは…
「結晶の大きさが約2mm角の砂糖をいう。色によって粗糖の黄ざら,赤ざら,精製糖の白ざら,染めざらなどに区別される。」
福砂屋の商標「蝙蝠/コウモリ」の意味は:
福砂屋の明治の革新人、12代清太郎が定めた幸福の象徴「蝙蝠」の商標
福砂屋では初代以来「福」の字を登録商標としていましたが、12代清太郎が、新しい商標として「蝙蝠」の商標を定めました。
様々な特製カステラを考案する中、清太郎は長崎を代表する菓子としてカステラを育てたいという思いをこめて、商標に蝙蝠を選んだのだといいます。
本店の暖簾(のれん)
砂糖を始めとする物資を仲介し、中国と長崎は絶えることのない交流がありました。その中国で「蝙蝠」は慶事、幸運のしるしとして尊重されているのです。
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日本人ならどなたでも食べた経験はある…であろうカステラ。
古い私の話: 新宿駅地下の角を曲がる時ガラスのケースに大きなカステラが入っていた記憶がある。
カステラの名前の由来は、イベリア半島に存在したカスティーリャ王国(Castilla)のポルトガル語発音である「カステラ」(Castella)とされる。
異説として、スペインやポルトガルでメレンゲを泡立てる際に「城(castelo)のように高くなれ」というかけ声をかけることから、カステロ=カステラとなったのではないかとする説もある。
ちなみに、カステラを日本で初めて食べたのは「織田信長」という説があり、甘いお菓子も好んで食べていたといわれています。
検索すれば愉快なエピソードが次々に出てきてカステラの話題は尽きません。
カステラは病人のお土産に届けたりした栄養あるお菓子の代名詞でもありました。
到来物があれば食べる前に、丁寧なパッケージや説明書を再度確かめて今までと違った目で見てください。
創業以来、今年で400年。きっと新しい発見があります。
愛されてきた味わい深いイラストの包装紙にも歴史がありました。
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福砂屋包装紙
中山文孝 NakayamaYoshitaka
(1888-1969)
中山文孝
グラフィック・デザイナー
中山は一八八八年、長崎市で生まれた。
中学卒業後、父が開業した扇子とうちわの店「中山美六堂」の家業に従事する傍ら、観光ポスターや企業の包装紙のデザインを行い、また長崎の文化財の記録写生も手掛けた。
独学で日本画を学び、学生に絵やデザインも教えていたという。
中山が活動を始めた一九三〇年代は、ポスターの転換期だったと話す。それまでの日本のポスターは、女性を中心に描いた上で企業名や商品名を入れるというものが主流であり、いわば「印刷された絵画」のようなものであった。
それがデザインへと変化していったのが一九三〇年代だという。「しかし絵画からデザインへと変化していく時代にあっても、中山の作品は絵画の力が失われていません。ひきつけるのだと思います。
現在、私たちが目にする多くのポスターは写真と文字を組み合わせたものが多いですよね。
ところが、中山の作品は絵画が語り、文字は最小限。それも私たちが新鮮さを覚える要素なのだと思います」
中山には幻の作品がある。一九四〇年に開催される予定だった「日本万国博覧会」のポスターがそれだ。
この時、応募した中山の作品は一等と三等を受賞。しかし残念ながら、日中戦争の影響で博覧会は中止となってしまう。
ただ当時、全国のあらゆるデザイナーが取りたかった賞の受賞により、中山は一躍名をはせることとなった。(長崎県庁hp)