アラサー(around thirty)の頃、場所を変えて一旦すべてを捨ててしまった…
はるか昔、何かで見たアメリカの女子学生寮のシンプルライフ(ベッドとブランド)の写真に感動して織機道具以外の何もかも色褪せて見えた。
その頃、学生結婚した万里子さんの結婚式の引き物に当時は無名のH氏が作品を創った。
事もあろうか、結婚式を撮ったフィルムを預かって郵便局から万里子さん宛に送った。そのパッケージが途中でなくなってしまった。
その後、万里子さんはスウェーデンに行って離婚届けを送ったまま帰らなくなる…
長々、転地するたびに持って歩いた"引き物"を捨てようと思って壊した。
アクリル板と金属ネジ4本簡単ではあるが魅力的な作品。
皆、元気にやっているかなぁ〜と
H氏はニューヨークに渡り名を成した。
場所を変えて織るだけの日々に満足できたが…性懲りも無く
それから背負ったモノが大きかった。
作品を創るように子育てをし、食の安心、安全のため120坪の畑を鍬で耕し時間が流れて子たちは「地方の家」を出て行った。
家族は離れると経済的負担も変化するものです。一緒に暮らすのが一番合理的と悟る。
赤ちゃんだった子は歩き出して勉強をして自立していきます。
しかし、動物や家人が出ていくのは万里子さんのように書類がいる。
こんな簡単な事実は重ねて重ねて身に振りかかりようやく理解できた。
元々、一人時間を費やす仕事なので家での作業は線引きが難しい…と思っている間に時間だけが経ってしまう。
時間はエンドレスではなかった。
この度、H氏の作品をようやく棄てる決心が出来た。
経糸を張って緯糸一本づつ打ち込んで布になる…これで納得できなければ1000本でもやり直す。
ドラえもんの"どこでもドア"があれば…と悩ましく ドミニック・ローホー 原秋子 訳 の『シンプルを極める』を噛み砕きながら読んでいる。
『捨てる、ということは「もっとも効果的な」療法であると同時に、哲学でもありアートでもあります。』ドミニック・ローホー
我が家の「モノ」は作家(知人・友人)が手で作ったもの、自分や家人の作ったモノが最も多い。あるいは清水寺から後ろ飛びで求めた「モノ」。
それでも、一棚無くしてみるとなかなか心地よい。確かに隙間は新しい発想、発見がある。
知人の作品、唐津焼…考えると手がとまる。棄てるより、なくなってしまった棚のドミニックさんが言うところの哲学とアートに心踊る。
まぁ〜良い!では無いか!
そろそろ、手放す為の充分な時間が流れてきた!
追:今夏、異常に雨が多い。キノコ(タマゴタケ)の菌さんも至る所現れている。