森の小神様
12月8日
今度の土日は、久しぶりに森に行く。
体調を崩して気分まで落ち込んでしまい、森に行こうという意欲が沸かなかったのだ。
それが現金なもので、体調が戻るにつれ、心がふつふつと泡立ちはじめる。ベランダで陽を浴びていると、ゆるやかな沸騰のようなものが起こり、情熱の泡が頭の中の活気を呼び覚ますのだ。
このお決まりの復活プロセスは、思考に支配される人間ならではものだと思う。
これが植物だったらどうだろう?
植物は思考に支配されないから、体調が芳しくないと悩んで落ち込んだりしない。季節の変化に合わせて自分の体が朽ちていこうとも、それをあるがままに受け入れるだけだ。
葉っぱが茶色に朽ちてなお、凛とした美しさを漂わすこの山帰来(さんきらい)。そこに森の小神様を見るのは、昔も今も同じだろう。
日本人は古来よりアニミズムを信仰した。
ものごとにはすべて、八百万の神が宿るのである。
山の神様、海の神様、それを祀る祠が、山辺や海の際に小さな場所を得て存在した。
山育ちの私は、母に連れられて山の畑に行くたびに、畑の脇に祀られた山の神様に両手を合わせたものだった。それは今も胸の中に、春の麗かな陽射しの中に佇んで、私の心を暖かくする記憶となって存在している。
山の中では枯れ枝を組み上げた基地をつくり、仲間たちと日が暮れるまで遊んだものだ。
由布の森の中にコヤキチを建てたのは、必然だった。
どこかで森に、そしてその山辺にひそむ神々とつながりたかったのだろう。
人間本来無一物。ミニマムな自分自身に戻り、やがて土へと帰る我が身のあり方を感じ取りとりたいのかもしれない。
ちっちゃいは、神様。
小さいものにはすべて、神様が宿っている。
今度の土日は、どんな森の小神様と出会うのだろうか。
体調は万全。心がふつふつと音を立てている。
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