当たり前が分からない!!
「1+1=2」
「右向け右では右を向く」
分かるけど、分からないんですよね。まあ、分かる。なんでそうなるのってところは分かりませんが、そういうものだって決まっているものなのは分かります。共通のルールであったり、規則が無いと崩れてしまうものの方が多いから必要なのも何を目指しているのかも分かります。ただ、これ以上になってくると分からなくなります。
「皆と同じようにするのが正しい風潮」
「皆と違うことをしていても受け入れなくてはならない」
「就職したらできるだけ長く続けなくてはならない」
ここまで来ると分からないことの方が多くなってきます。もちろん、分かる範囲もあります。レールから外れない方が楽なのも、レールから外れた者を蔑むことが許されないことも。ただ、レールの外側を非難するな、と言ってしまうと、今度はそのレールの外側に出た際に矛盾を抱えることになり誰のことも何も言えなくなってしまうわけなんですが…。
私はどこまでをカバーするのか、それが決まっていないとそれについて考えてしまう性格なのです。
ただ、問題は文字以上のところにあると思っております。
ルールの問題点として、そこに明記されていないことについては判断が分かれることが挙げられると思います。
肯定系のルールならまだマシです。強制されることに言葉に出来ない気持ち悪さがありますが、それなりに従うことはできます。
しかし、「~~してはいけない。」という否定形のルールがあれば、~~はできないのは当然ですが、違う方法によって同等の結果を得られるとしたら、それを咎めることができないことになります。
1+1=3より上ではいけない。であれば1やマイナスの数字が有効になり、適切な運用が叶わなくなります。
ただ、社会でそういうことを言えば「屁理屈だ」「拡大解釈だ」と一蹴されるでしょう。
イレギュラーや例外については必要以上に言及しないのが美徳とする風習が割と社会のあちこちに点在しているように思います。
それに僕は真っ向から反抗したいと思っております。理由も無く「そういうものだから」と受け入れるのは個人的に精神衛生上良くないので。ただ逆に意味も無くルールを破ることにも反対です。
全ては道理あってこその行動であるべきだと思います。おそらく物事の本質は例外にこそ宿るのではないでしょうか。過程を操作したいのか、結果を操作したいのか、それに合わせてルールを作り、当たり前を享受するべきでしょう。
多くのルールは最大多数の最大幸福が原理なのだと思いますが、現代は多様性を言い訳に好き勝手する人が増加しているのでそれも適応することが難しくなってきたような気がします。かといって、アダムスミスのように個人が自分の利益を追求する行動が、社会に対して利益を適切に配分するとは思えないので自分の融通の利かなさに呆れるばかりです。
結論としては、当たり前とは内輪ノリだと思っておりますがそれを蔑ろにすることも同等に危険な行為だと思う、ということに行きつきます。特に今の時代はその傾向が強くなっているのかもしれません。それでもまだ生きられるのは幸福のうちの一つなのかもしれません。同時にそれは不幸の一端も担っている気もします。当たり前の概念があれば、普通と普通じゃないを比べることになりますから。
ながくなってしまいました。最後までお読みいただきありがとうございます。
どうぞ、健康には気を付けてお過ごしください。
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