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【10分で読める小説】 出入り口は眩しい

 あ。
 思わず声が出て、今見えている世界は夢だ思うと急に体の自由が効くようになる。

 急に夜の冷たさが全身を包んだ。ぼんやりとしていた視界が急にはっきりとしてきて目の前の火が眩しいくらいに輝き始めた。辺りを見渡すと全く知らない林だった。木々は葉も少なく湿った土の匂いが満ちている。周りに人影もなく、動物の気配さえない。夢なのは間違いないらしいのに、まるで現実のように足裏から伝わってくる平坦になりきらない土の感触が嫌にリアルだった。夢は記憶を整理している間に見る、とどこかの本で見たような気がする。その割には地元にも見たことの無いこの場所は一体どこを由来とした記憶なのかてんで分からなかった。ただ不思議と不安感や恐怖といったようなものはなく、体が軽く自然に馴染む心地よさがあった。
 それからはただただ歩き続けた。赤い屋根の家。夕暮れの街を歩いていた。見慣れた気がするがどこか分からない。
 急に足元がふらついて、道路の真ん中で四つん這いになった。痛みはもちろんなかったが、顔を上げるといつの間にか夜になっていた。それについて別に何も思うことは無かった。脈絡が無い方が夢らしいとさえ思う。

 無心になってしばらく歩くとキャンプファイヤーを囲うように人が座っている場所があった。服装もまばらで制服を着た男女、部屋着のままであったりスーツを着ていたりする。老若男女問わず、まばらに炎を囲んで座っていた。それぞれの顔を見るが、先ほどまでいた人たちと同じような気がする。どこかで見たことがある気がしているものの、どこで出会ったか思い出せない大勢の人たち。
 これまでと違う雰囲気に戸惑っていると隣に座っていた女が声をかけてきた。
「あなたはどうしてこんなところに来たの……」
 無感情で抑揚のない声だった。揺れる炎の影に照らされて顔の右半分が明るくなっている。もう半分は長く伸びた髪で隠されていた。潤んだ目が宝石のように煌めいている。
「どうしてって、どうしてもこうしても無いんじゃないかな。皆同じ理由でここにいるんだと勝手に思っていたんだけど……違ったかな」
 僕は自然に聞き返していた。何かを考えるよりも先に言葉が口から飛び出していて、口を閉じてから自分自身に驚いた。他の皆がこちらを見たり、意識してこちらを見ないようにしているような人もいた。あまりにも強い疎外感と異質な雰囲気に僕は胸の底がざらざらとしていくのを感じた。
「そうね……皆同じだと思うわ。でもあなたは……どうかしら」
「分からない。どうして僕がこんなところにいるのか、ただ歩いていたらここに着いた。ここは一体どこなんだ」
「どこだって一緒よ……」
 そう言って女は顔を正面に向けて炎をじっと見つめていた。表情は髪で隠されていて見えない。
 僕も炎を見つめてみたが、じわじわと不快な暑さが肌を焼いた。唇が渇き、頬や耳がちりちりと焼けていく感覚がする。思わず目の前で腕を振り、少しばかり空気が入れ替わることを期待する。心なしかほんの少し涼しくなったような気がするが、呼吸することさえも憚られるような重苦しい雰囲気だけが僕たちを囲んでいた。
 誰かが口を開いた。男の声だが、はれ物に触れるように慎重で臆病な小声だった。 
「朝が来たら……この炎、消すべきかな」
 答える人は誰も居なかった。パキパキと木が焼ける音だけがこだましている。
「朝なんて来るわけないよ」
 隣の女が静かに答えた。堰を切ったように皆が噛み殺していた嗚咽が漏れ始めた。
「なあ、なんで皆泣いているんだ……」
 女がこちらを向いてふっと力無く笑って見せた。首を軽く傾げて不思議そうに僕に聞き返してきた。
「なんで泣いているのかって……。ここにいる人たちのことちゃんと見た……」
 そう言われて僕はあたりを見渡した。皆、共通点は無いように見えたけど、どうやらそれぞれはっきり見えない場所があった。それが何故なのかは分からない。
 ここにいても夢から抜け出せそうにない。ここではないどこかへ向かおう。
 そう思って炎に背を向けたとき、女が声をかけてきた。
「どこへ行くの……」
「どこって……少なくともここじゃないどこかさ。別にどうしたってここにいても何も変わらないじゃないか」
「行くところなんてどこにもないじゃない……」
 それもそうだと思った。ただ、鼻につく煙の匂いと目に染みる灰が嫌で逃げ出したかった。眉の間に力が入って口調がぶっきらぼうになってしまう。
「別に僕はここで生まれ育ったわけでも無いし、ここに安住する義理だってないわけだ。ここにいてもいなくても、何かが変わることが無いし僕は改めてどこかに向かうとするよ」
 すると女は軽く鼻で笑ってみせた。
  鼻の奥がじわじわと痒くなるのを我慢できなかった。
 「でも別にそんなことはどうでもいいじゃない。それを知ってどうなると言うの。どこに行ったってすぐにここに戻ってくるし、そもそも私たちには向かう先なんてどこにも無いの。ただただじっと時間が過ぎるのを待つことがせめてものマナーよ」
「そんなことを言ったって、ここにいたら何が起こるって言うんだ。君は僕じゃないから、せめて礼儀として少し遠慮していたのだけど、この際だからはっきり言わせてもらう。これは僕が見ている夢だろう。別に君たちは僕には関係も実態も無いような幻に過ぎないじゃないか。その程度の存在の癖に僕の行動にケチをつけようだなんておかしな話だとは思わないのかい」
「そう……別に引き留めるつもりはないの、ただ良かれと思って忠告をしてあげただけ。もし、どこかに行くならここから向こうに行くのはやめておいた方が良いわ。何も考えないで、振り返ってただただ来た道を戻ることだけを考えて」
 「僕は少なくとも良かれと思って、なんて言う人間で本当に他人のことを考えている人間を見たことは無いけどね」 

道を戻る足には軽かった。ただ辿った道を思いだせずに足元を見つめながら歩いた。背中から感じる炎の熱と光が届かなくなると一層全身に力が入った。星の光も届かない林道の中でどこに向かえばいいのか分からず、余計に腹が立った。
  
  木々が俺のことを笑っているような気がしていた。

  どこに向かっているんだ。どうせどこにも出口は無いんだって言うのにあいつは馬鹿真面目に俯いて誰かの足跡を追いかけまわしていやがる。
  俺たちの姿も見ないで自分はいっちょ前に現実を見ているつもりになっているらしいぞ。ふざけた話だよな。前を向く勇気さえない人間がどうやったら前に進めると言うんだ。
  
  ざわざわとはしゃぎ、好き勝手に人を笑ってくる。耳をふさいでも全く意味は無く無情にも声は僕まで届いてくる。
  体感小一時間程度歩いたような気がするのに、一向に出口は見つからなかった。最初は歩けば林の木々の数にも増えたり減ったり変化があり進んでいる実感があったにも関わらず、気が付くとそんな些細な変化も見えなくなってきていた。
  月の光が雲間から漏れ始めて僕の背中を照らしている。足元が良く見えるようになって僕の足は勢いを増した。煙を吸い込まないようになって冷え始めた肺の奥まで、夜の空気が入り込んで血と肉がそれを力強く温めていく。足がどんどんと軽くなり、体が夜に冷やされてはっきりとしていく感覚が心地よかった。耳に届く音も自分の呼吸の音と耳を撫でる風の音だけになっていた。
  恍惚とした感覚が体を支配し始めた頃にようやく林も終わりが見え始めた。砂漠の中にオアシスを見つけたように、僕は心臓がより一層高鳴るのを感じた。 長いトンネルの終わりが外の明かりで光に満ちているようにこの道の先も光っているように見えた。
  高鳴る鼓動と、冴えてきた視界を目の前の景色はいとも容易く期待を裏切った。目の前には逃げてきたはずの巨大な炎が立ちふさがっていた。炎をまたいで女は座っていた。僕は茫然と立ち尽くした。
  女がゆっくりと立ち上がり、僕の前まで歩いてきた。
 「戻ってきたら駄目だって言ったのに……」
 「違う……違うんだ。僕はほんの少しだって戻らなかった。真っすぐ歩いてきた道を戻っていたはずなのに、いつの間にかここに辿り着いたんだ……」
 「そりゃそうでしょう……自分で言っていたじゃない。これは自分の夢なんだって……」
 「そうだろう、だってこれはほんの少しも現実味が無いじゃないか。真っすぐ歩いているだけなのにさっきまでいた場所に戻ってきたり、君たちみたいにどこの誰とも分からない人たちに囲まれたり……一体全体何も納得できるものが何も無いじゃないか」
  「そんなことないでしょ……本当はもうとっくに分かっているんじゃないの」
 「意味が分からない。別に僕はさっさとこの夢から抜け出したいだけなんだ」
 「まだ今目の前の景色が本当に夢だと思っているの……お気楽なのね」
  そういうと女は顔の半分にかかっていた長い髪を手で持ち上げてみせた。顔の半分は焼きただれており、肌は赤黒く色が変わっていた。僕は思わず目を見開き、膝から力が抜けた。
 「これは夢じゃないの。ここに集まっている人たちは、火によって人生を終えた人たちが集まっているの……そしてあなたもここにいるって言うことは大体の予想はつくと思うけど」
 「そんな話をどうやって信じろって言うんだ……いや、僕は何度も見てきたぞ。体調が悪いときは決まって夢の住人たちが僕に向かって有り得ないことを言うんだ……僕は信じないぞ……」
 「じゃあ一つ聞くけど、今の自分がどんな顔をしているのかちゃんと確認したの」
  恐る恐る両手の指先で頬に触れた。指先は真っ黒になり、手のひらも皮がめくれ真っ赤になっていた。理解の追いつかない光景に声も出せず、眩暈を覚えた。
 「なんで……」
 「人が死ぬのに理由は無いわ。私たちもそう。だから私たちには行く場所が無いの。せめてこの暖かい炎の近で気分を紛らせているの。終わらない夜を過ごすのにこの炎は随分快適だわ」
  死んだことに違和感は無かった。でも僕にはこのまま死ねない理由があった。
 「僕はまだ死ねない……生き返る方法はないのかい……」
 「さあ……少なくとも私は知らないわ。もし誰かいたとすればこんなに人はいないはずでしょ」
 「確かにそうだ……」
 「でも……皆最近同じ疑問を持っているわ。この炎に飛び込んだ人間はどうなるのだろうって……でももうみんな諦めているの。炎に焼かれる辛さも知っているから……誰一人として思っていても行動した人は見たことが無いわ」
 「君は、もしあの炎に飛び込んだらどうなると思う……」
 「どうなるでしょうね。もしかしたらただ痛いだけかもしれないし、何も感じず何も起きないかもしれない。それでも何もしないよりはいいのかもしれないわ」
  僕は力のこもっていない両手をぐっと握りしめた。指先はまだ血の熱を残していた。
 「そうだね。ありがとう、それだけ聞ければ十分だ」
 「もう一度死んでも良いって言うの……」
  僕は全身に力を込めて立ち上がった。全身がまだ動くのを確認して前を向いた。
 「僕は一度死んだ記憶が無い。ならこれが初めてだ。それにやはりずっとここにいるだけじゃ仕方ない。僕には戻らなくてはいけない理由があるんだ」
 「それは一体……」
 「息子の誕生日なんだ。誕生日ケーキを買ってやらなくちゃいけないんだ」
  僕はそう言って、炎に向かって一歩ずつ近づいた。パチパチとはじける音が聞こえる。
  後ろで誰かの声が聞こえる。しかし、炎が発生させる音にかき消されて何を言っているのか分からない。それでも、口の動きでなんとなくわかったような気がする。あとで息子にも言ってやらないと。
 
  目が覚めると、清潔すぎる白い部屋にいた。全身が痺れるほどに鋭い痛みに教われている。不愛想な医者が言うには寝ている間に、マンションの隣の住人が不注意火事になり、自分たちのいる部屋も燃えてしまったらしい。
 「僕のことはどうだっていいんです。息子は無事ですか」
  医者は無表情のまま淡々と頷きながら答えた。
 「体に多少の火傷は有りますが、ご主人の判断が幸いして煙もさほど吸い込んでいないようです。火がついてからすぐに布団でくるまってあげたのはまだ的確な判断と言えるでしょう」
 「良かったです」
 「あと二、三日様子を見たら面会もできると思います。その時にまたゆっくりご家族でお話してください」
  僕が感謝の言葉を伝えると、医者はそそっかしそうに部屋から出ていった。
  窓から見える空には夜と朝の間にある、優しくて温かい明かりが力強く僕の目まで届いていた。

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