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ものぐさ努力論

現代は往年に比べ便利になったはずなのに、めんどくさい。
何がと言われれば何もかもと言ってしまう。別に大したことは何もないはずなのに、何でも無いことの方がめんどくさく感じてしまう。

その結果、毎日体の一歩後ろに心を置いて生活をする。自分で自分の頑張りは見ないで生活をする。眠る直前になってようやく、今日も一日頑張ったかもしれないなと思いながら目を瞑る。

頑張って、と人に言うのは簡単で人に言われるのも実に簡単な話なのに、実際に頑張るのは難しい。


頑張れと伝える難しさ

「頑張れ」「頑張って」
いつも誰かにそう言っているような気がする。ただそれを気軽に言えるだけの努力を私自身がしているとは思ったことは無いし、まずそもそも頑張っていない人なんていないと思う。頑張れ、とは言ったもののその人の努力を知らず、どれだけ頑張っているのかも知らないままで「頑張れ」と言うのはあまりにも無責任に思えてしまって言ってから心がささくれ立つ。

頑張れ、と言われるのは全然気にならない。ただ、それを自分が口にするだけの資格が無いように思ってしまう。自己肯定感の低さ故なのか、それとも全く別の理由があるのかもしれない。

かくしていつも「頑張れ」に代わる言葉をいつも探しているものの、上手に交代してくれそうにない。「無理しない程度にね」「たのしんで」と言ってみても微妙によそよそしくて、親身になっている感覚も無い。

他人にかける言葉はいつも無責任だから、考えすぎだと分かっていてもその人にふさわしい言葉を海の底から探したくなる。それがまた難しい。

自らの頑張りを自己評価する大切さ

社会に出て働く前から自分に課したルールはいくつかある。自分のことを頑張ったとは思わないこと、自分の頑張りは無視すること、結果でのみ口を開くこと。頑張ったのかどうかは、自分以外の誰かに判断を委ね自分は自分の行動に専念するべきだと思っていた。

例えば才能があったら。もっと前からやっていたら。そんなことを思うことは何度もあるけど、同時にそんなことを考える暇があるなら今を頑張ってみせろと言う自分もいる。

飽き性であることに加え、せっかちなせいで明日明後日には結果が出てほしいと思ってしまう。宅配も今か今かと届くのを楽しみにして、一秒が退屈に感じてしまう。未来にしか期待は生まれてくれない。

何かから逃げるように何かに没頭を求める。本をむさぼり、映画に救いを求める。何か物語を見終わった後は救われたように心が軽くなる。何かに集中した後はいつも心地よい疲労感に襲われる。

結局頑張ったかどうか、自分で肯定するつもりも特にないのだけど、頑張った自覚も無いまま周りから頑張ったと評価されることは少なくない。そんな瞬間に似ている充足と達成感。

他にやることを忘れ、目の前のことに没頭することに幸福感は宿る。
そうして自分の後ろに続く自分の足跡が多分頑張りの正体だと思う。結果が出れば正義と言われてしまうのは逆を容認しない危険性をはらんでいるから言いたくはない。でも、今少しでも自分の足跡が分かるのならそれは幸福で、それは頑張ってきた証なんだと思う。自分の分でも最低限それは認めてあげたい。

幸田露伴の『努力論』

積読のうちの一つ、岩波文庫から出版されている幸田露伴著『努力論』。
「努力している、もしくは努力戦としている、ということを忘れていて、我がなせることがおのずからなる努力であってほしい。」と本文から抜粋された一文が表紙に書かれている。たったこの一文を読んだだけでも随分心が救われる気がする。

いまだ全て読んだわけじゃないけど、読み終えたころにもう一度努力について考えてみたい。

結局頑張りって

頑張りってどこまで行っても不確定な判断だし、少なくとも結果が優先される社会に生きている私たちは結局頑張りって誰かから言われないと救われないものなように思う。だからせめて誰かの為に、言葉をかけてあげたい。「いつも頑張っているね」もしも、相手がまだ行く道の途中で、まだ歩こうとしているのなら「頑張れ」と、せめて背中を押してあげたい。

何かをしたから努力と呼ぶのは好きじゃない。生きているだけで、何もしていない人はいないだろうから。性善説で世界を見るわけにはいかないが、少なくとも今を精一杯生きている人たちは皆頑張っている。目の前にいる誰もが努力して、今を作り上げた。その壮大な歴史の一部に自分もいると思えば、それはなんとなく素敵なものに思えてくる。



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また次のnoteもお読み頂ければ幸いです。お疲れさまでした。


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