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正誤や善悪の判断はいかになされるか

 先日はうれしいことが二つあった(こんなことはなかなか珍しい)。ひとつは、かねてよりこの記事に書いてきた我がニンジンのタネから芽が出たこと。二度の蒔き直しをし、試行錯誤をした結果、なんとかポツポツと芽が出始めてくれた。原因はどうもタネの上にかけた土が少なかったこと。好光性のタネとはいえ、かける土が薄いとそれだけタネの乾燥を招くことになり、発芽が阻害されてしまう。そこで、一度目よりも多めに土をかけ、なおかつ、ダンゴムシたちも集まらないように工夫したところ、上手く発芽してくれたようだ。蒔いた時期が遅くなってしまったので充分に成長してくれないかもしれないが、今回の試行錯誤は次回のタネ蒔きの際、きっと役に立つだろう。

 もうひとつは、再審が行われていたいわゆる”袴田事件”の袴田巌死刑囚に無罪の判決が出たこと。袴田さんはわたしが暮らす静岡・浜松出身のかたで、再審になってからはお姉さんのひで子さんとともに浜松の街中に暮らし、散歩中のご本人をお見かけしたこともあった。

 数年前に高橋伴明監督の『BOX』という映画を観て初めて袴田事件について知ったのだが、映画自体がとても真摯でいい作品であったため、以来、この事件には関心を寄せてきた。
 正直なところ、よほどの関係者でなければ本来、ある事件の真相というものに迫るのは難しいだろう。多くの人たちは新聞やニュース、そして今回のわたしのように映画などでしか情報を得られないからだ。なので、わたしたちが裁判などで争われている事件について何らかの判断を下す場合、その判断材料となるのは双方の言い分、ということになるのではないだろうか。

 そこで袴田事件について知っていくと、袴田さん本人は最初、「殺していない」と殺人を否定し(その後、警察の取り調べによる自白で殺人を認めたこともあるが、その取り調べは気の遠くなるような長時間にわたる過酷なものであった)、姉のひで子さんもまた、「弟が殺人などするはずはない」という信念のもと58年間、無罪を主張し続けてきたわけである。
 一方、袴田さんを殺人犯だと主張した警察や検察は、違法ではないとはいえ、その有罪を立証するための証拠の提出をなかなかせず(事件の1年後に証拠品として血痕のついた衣服の写真を提出するのだが、なぜかそのときは実際の衣類は提出されなかった)、弁護側が無罪を主張するために提出したそれに対する反対証拠(犯行衣類の味噌漬け実験や後になって出された血痕のDNA鑑定)については、それを否定するだけの態度に終始した。これでは相手の主張を否定するだけで、自分の主張を正当化しようとしていない。つまり、あくまで自白のみによって立証しようとしていることになり、当時、警察の密室のような部屋で行われた過酷な取り調べによる自白が一番の証拠ということになり、これはどう考えてもフェアな主張だということはできない。
 
 そんなアンフェアな主張をする警察や検察と袴田さんや姉のひで子さん、そして無罪を主張する弁護人とを比べると、わたしのように事件をマスコミなどの情報によってしか知らないものにとっては、真相はさておき、袴田さん側が正しいと判断せざるを得ない。正しさはフェアな態度で臨んでいるもののほうにある、とほとんどの人は考えるであろう。そう、真相にはけっして近づけなくとも、わたしたちは正誤の判断をこのように下すし、すでに無意識のうちにそうした判断を普段からしているのではないだろうか。

 善悪や正誤の判断を下すことはときにとても難しい。でも、そのどちらかの主張をする人の態度や人柄をよく見ることでわたしたちはその判断を下すし、そしてそれでよいのではないだろうか。いくら非科学的だと言われようとも、そもそもその判断をするための材料がすべて出そろっていないことも今回の袴田事件のようにあるだろう。そうした場合にわたしたちができることは双方の言い分を聞きながら、その主張の妥当性や態度から判断するしかないではないか。

 袴田事件を知りながら考えたことはこんな、「正誤や善悪の判断はいかにしてなされるか」ということであったように思う。とにかく58年間、無罪を信じ、警察や検察の主張にひとつづつ丁寧に回答を出し続けてきた姉のひで子さん、弁護士、支援者のかたがたの努力が報われてほんとうに良かった。そして、58年間、死刑囚として生きなければならなかった巌さんに無罪の判決が出て、ほんとうに良かった。

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