サッカーは目的か手段か
「今日の練習頑張ったら、魚屋さんに連れて行ってもらうんだ。」
最近、魚と魚をさばくことにはまっているS君。
大好きな魚屋さんに行くことをモチベーションに、サッカーを頑張っているらしい。
ここで、大事な論点がある。
子どもにとって、サッカーは目的なのか手段なのか。(哲学みたい。)
結論から書くと私はどっちでもよいと思うし、子ども(大人もだけど)たちそれぞれ答えがあっていいと思う。
大事なのはみなが同じ答えをもっていないことを認めて、個々の価値観を尊重すること。
そして、その時一番楽しいことを子どもにはとことんやらせてあげること。それがサッカーが一番である必要はないし、他にもっと好きなこと、夢中になることがあればそれは間違いなくやらせてあげるべきだ。
私が親として子どもと接する上でこの本に影響を受けているが、子どものフロー体験がいかに大事であるかを説いている。
極端な言い方をするといい会社、いい大学に行くための手段としての受験勉強をやるより、今しかないこのタイミングに一番好きなことに没頭させることが今も大人になってからも結果的に一番幸せなのではないか。
いわゆる、コンサマトリーな生き方だ。
本題のサッカーは目的か手段かという論点に戻る。
プロ選手となり、サッカーでご飯が食べれることが目的なのか?
練習をやるのは試合に勝つためなのか?
健康や体力を養うためにサッカーチームに入り定期的な運動の習慣を作るのか?
学校とは異なるコミュニティで定期的に友達と会えるために練習に行くのか?
そして、S君のように魚のためのサッカーの練習なのか?
これらはインストルメンタルなものとしてサッカーをとらえた一例だ。
一方でコンサマトリーな考え方で、サッカーそのものをやることが目的なのか。
当然、子どもたちも保護者もここまでサッカーが目的か手段かを言語化することはないと思うし、それをやる必要もない。
ただし、インストルメンタルなのかコンサマトリーなのか、インストルメンタルならその目的は複合的で複雑に関係するわけで、みなの価値観を尊重しながら一つのサッカーチームを組成し、そんな中で指導者をやれるというのは実に面白い。
S君の事例はぜひnoteに書こうと思ったがいざ言語化してみると何が書きたかったよく分からなくなったことは否めないが、一旦ここでこの論点は放置しつつ、気が向いたらまたこのテーマについて考えを書いてみたいと思う。