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「noteを書き始めたら終わりだ」

「noteを書き始めたら終わりだ」
そう聞こえた気がして、僕はギクっとした。もう一回その声がした方向に耳を傾けてみた。部活の先輩の群れがある。
「これ見て。(既に卒業している)A先輩がnoteを始めたみたい。ほれ、これ」
「あの先輩もこうなっちゃたかー」
はっきりとそう聞こえてきた。明らかにその投稿を揶揄しているような言い方。
僕は開いていた自分のスマホの画面をそっと閉じた。「note 始め方」

私が通っている大学は、世間的には有名な大学である。それに体育会の部活に所属しているとなれば、その集団は向上心に満ちた、謂わば意識が高い集団である。向上心の塊。自分の人生の主人公は自分だ!というタイプ。
(僕はそれに対して皮肉を込めて言っているわけではなく、純粋に自分がなれないタイプの人間で、羨ましいという意味で言っている。)
そんな人は、人の目立った行動や奇抜な行動に対してすぐ噂して揶揄する。悪い文化である。そのくせ、恵まれた環境で生きてきた彼らは、僕からしたら考えられないほど目立つ生き方をしている。

僕は、自分の消化しきれない思いを文章としてぶつけることが多い。自分のSNSには度々、恥ずかしながらエッセイとして、冴えない人間のありのままを表現している。数少ない友人だけに向けたアカウントだが、「面白い!」と言ってくれる人がいる。
文章をあまり読まない人は僕の文章を見て面白いと言ってくれる。しかし、文章を読めば読むほど、自分の文の拙さが恥ずかしく感じる。改めて、作家という職業をしている人には頭が下がる。僕にできることは、文章を普段読まない人間をほんの少しだけ、文章を読むことが面白いと思ってもらえるようにすること。それなら微力だけれどできるなと思った。
そんな時にnoteの存在を知った。僕の文章を読んでくれる人が勧めてくれたのだ。「自分になんか」という悪い癖が出て、そのせいで始められずにいた。加えて、部活の人間があんなことを言うから、もう怖くなってしまった。

最近、
「俺の話をエッセイに使ってくれて嬉しい!」
そんなメッセージが届いた。「あぁ十分だな」と思った。こんな小さい自分が誰かを少しだけ喜ばせられるんだ。だから、note、少しだけ範囲を広げて誰かに文章を届けたい。そんな欲が湧いてしまった。

自分にとってのただの暇つぶしかもしれない。拙い文章かもしれない。
けれど書く理由ができた。だから書き始める。

「noteを書き始めたら終わりだ」
「自分になんか」の生活。


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