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学問論:学問について(4) 学問における「実践」

学問論:学問について(3) 学問における「規範」

またずいぶんと間が空いてしまいましたが、再開します。
この「学問論」は「バカ学」本論に比べると読んでくださる方があまりいらっしゃらないようなのですが、いろいろ考えて、やはりどうしてもここを通過しないと本論に進めないように思えますので、とっとと済ませたいと思うのものの、なかなかキーボードが進まず、気が付いたら半年以上経っていました。
2025年が明けてようやく、これじゃいかん、と意を決した次第です。今回は「実践」、次回は「真理」と一気に論を進めたいと思います。

探求者としての科学者たち

さて、まずは「実践」のほうです。
前々回の「学問論:学問について(2) 学問にとっての「戒定慧」」でも指摘したように、私たちの日常の活動の多くは「規範」と「実践」の組み合わせになっています。前回触れた言語活動の「ラング」と「パロール」も、規範と実践の関係と考えられます。
「規範」というと一般的には従うべきことというイメージがありますが、私たちは必ずしも単純に規範に従ってばかりいるとは限りません。ラングとパロールでいえば、ダジャレは言葉の規範ラングを逆手に取った遊びの実践パロールといえます。私たちの日常的な行為は、規範への従属というより規範への対応といったほうがいいのだろうと思います。もちろん従属も対応のしかたの一種ですが、ほかにもいろいろな対応の仕方があるわけです。
そのような規範と実践の関係を踏まえて、学問の「実践」について考えます。

前回はトーマス・クーンの「学者の共同体」についての議論を見てきましたので、今回はマイケル・ポランニーの「学者の共同体」論を見てゆきましょう。
しかし、学問の実践との関係でポランニーの議論を見るためには、まず彼の説く「暗黙知」に触れないわけにはいきません。
ポランニーは「暗黙知」について、以下のように説明しています。

私は人間の知を再考するにあたって、次なる事実から始めることにする。すなわち、私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる。分かり切ったことを言っているようだが、その意味するところを厳密に言うのは容易ではない。例をあげよう。ある人の顔を知っているとき、私たちはその顔を千人、いや百万人の中からでも見分けることができる。しかし、通常、私たちは、どのようにして自分が知っている顔を見分けるのか分からない。だからこうした認知の多くは言葉に置き換えられないのだ。

マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』(高橋勇夫訳)

確かに私たちは人の顔を覚えるとき、相手の顔を眼、鼻、口などの個々の特徴が集まったものとしてのみとらえるのではありません。もしも個々の特徴のみで顔を覚えるのであれば、真ん丸な眼の人が笑って眼を細めた途端に誰だかわからなくなるでしょう。サングラスやマスクをされた場合も同様です。
しかし実際には人が誰か(××さんとします)の顔を覚える場合、視覚的に認識しているのはあくまで××さんの眼、鼻、口などの具体的な形やその配置のみです。にもかかわらず私たちは、その実際に見た形状を通じて、言葉にもできずそれ自体を形にも表せないけれど、「××さんの顔っぽさ」としかいいようのない何かをとらえるわけです。これをとらえることで私たちは、いったん××さんの顔を覚えてしまうと、××さんが顔をくしゃくしゃにして泣いたり笑ったりしても変顔をしても、××さんだと見分けられるのです。
このように、具体的な知覚を通じてその知覚を超えた何かを認識すること、あるいはその認識の内容が「暗黙知」です。ポランニーは別の例として、杖の先で何かに触れる場合も挙げています。私たちが杖の先で柔らかい土や硬い石に触れるとき、実際に感じているのは杖の握りの部分に表れる感触のみなのですが、この感触を通じて私たちは杖の先が触れたものの硬さや質感を、いちいち理屈で推理することなしに感じ取ることができます。

暗黙知は何かを認知する場合だけでなく、体を動かしてするような行為を身につける場合にも見られます。乗り物の運転や料理、道具や機械の操作、スポーツなどといった技能は、体の動かし方や筋肉の感覚を一つ一つ覚えて頭で組み立てるのではなく、一まとまりの流れとして体に覚えさせることで初めて身につきます。
このような暗黙知は学問の世界でも、実験器具の扱い方だとか研究対象の観察の仕方とか論文の書き方とか、さまざまなレベルで存在します。学者たちの「専門知」には、さまざまな暗黙知が含まれており、学問の世界では非常に重要な意味を持っていると考えられます。
ただ、ポランニーは(少なくとも彼の主著である『暗黙知の次元』の中では)学者たちの専門知について特に触れていません。ポランニーの議論はもっと抽象的なレベルで展開します。
彼は暗黙知の構造を、経験可能な低位の実在を通じて、より「高位な実在レベル」に達することととらえ、同じ構造が進化の過程(生命の誕生、知性の誕生)にも見られるとして、これを創発イノベーションと呼びます。
この創発性は、科学者が実験・観察などから真理を発見するプロセスにも存在する、とポランニーはいいます。そしてこの創発を可能にするために、科学者たちは、自然法則のようなより高次の存在があるはずだという「形而上学的信念」を持った「探求者」でなければなりません。このような探究者たちが集まって科学者の共同体が形成される、というのがポランニーの考えです。
ポランニーは社会主義国家で科学が政治に従属していることへの反発もあり、科学の自律性を守らなければならないという考えから上記のような主張をしたらしいのですが、非常に高邁こうまいといいますか、理想主義的な学問観のように思えます。
しかし現実の科学者たちは、果たしてそんな高邁な理想を胸に研究活動をしているのでしょうか。

現実の科学者の実践を規定するもの

ポランニーは「探究者たちの社会」という表現を使っていますが、信念や理想を共有した者たちの集まりですからむしろ「共同体」と呼ぶべきものです。
社会学者のP・ブルデューは、コレージュ・ド・フランスでの最終講義を収めた『科学の科学』という本の中で、このような「共同体主義的」な考え方を批判しています。

実践を理念的基準への自主的服従の所産として記述するこの理想主義的見方は事実によって否定されます。われわれが実際に目にするのは、支配の諸構造の内部における闘争、ときには熾烈な闘争であり、また競争です。「共同体主義的」見方は、科学世界は科学財の「正当な操作の独占」、より精確に言えば、よい方法、よい結果、科学の目的・対象・方法のよい定義の独占をめざす闘争の世界であるという、科学世界の機能の仕方の根元を見逃しています。「科学共同体」においては科学的伝統の要素のひとつひとつが批判的評価にさらされるという、エドワード・シルズの見解が示しているように、「共同体主義的」な見方は客観的で無名のメカニズムへの服従の産物であるものを意志的な遂行と理念的基準への自主的な服従として記述することになります。

P・ブルデュー『科学の科学』{加藤晴久訳}

ブルデューの議論は理論的性格が勝っており、具体的にどんなことを念頭に置いているのかわかりにくいです。ここでは「科学業界」の内情について、科学者自身が書いている文章を参考にして見ていくことにします。

以前述べましたように、学問(科学)の目的は「真理」の生産です。学者は研究の成果として「真理」を生産します。
この「真理」は、具体的には論文の形をとります。研究の結果わかったこと、つまり「真理」を論文にまとめ、学術誌に発表します。この「学術誌に論文を発表する」という実践の形式を、ブルデューのいう「客観的で無名のメカニズム」として考えることができます。
学者たちは、権威ある学術誌に優れた論文を書くほど、その専門領域内における「闘争」で優位に立てます。実験生理学者のガレス・レンとその息子で社会学者のロードリ・レンの共著『サイエンス・ファクト 科学的根拠が信頼できない訳』によると、優れた論文とは他の論文に引用された回数が多い論文であり、そういう優れた論文をたくさん載せ続けている学術誌が権威ある学術誌です。ウィキペディアによると「雑誌に掲載された論文が一年あたりに引用される回数の平均値」を「インパクトファクター」といいます。このインパクトファクターが高い学術誌は学界に大きな影響力をもつとされ、そこに論文を発表する学者は大学内での地位や学会での権力を高めていくわけです。
こういう科学業界の特質に関して、脳科学者の坂井克之は次のように言っています。

このような論文至上主義、あるいはインパクト・ファクター至上主義に対する批判は以前から強いのですが、そうはいっても研究費やポストを維持できなければ生活できません。(中略)結局のところNatureやScienceに論文を書いて教授になった者が学会の発言権を持っているために、持たざる者の意見は負け犬の遠吠えにしかなりません。(中略)いまさらこのようなシステムを変えることなどしようとも思わないでしょう。

坂井克之『科学の現場』

もちろん、このようなシステムであっても、結果として価値ある「真理」を生産し、その学問を発展させるのなら問題はないといえます。しかしガレス・レンとロードリ・レンは、被引用回数を基準とした論文の価値づけが、重要だけれども引用に向かない論文が陽の目を見ないなどの「出版バイアス」や、引用を重ねるにつれて内容が歪曲されるなどの「引用バイアス」を生じさせて、学問の世界に悪影響を及ぼすこともあると指摘しています。
レン親子の共著の邦訳には「科学的根拠が信頼できない訳」というサブタイトルがついています。確かに、この本に書かれているような内部事情を門外漢が読むと前回触れた4つの「マートン・ノルム」、つまり「公有性」「普遍性」「無私性」「組織的懐疑主義」なんてどれも疑ってかかるべきことのように思えてきます。しかし私たちはここで、数学者のH・ポアンカレが遺した次の言葉には耳を傾けるべきでしょう。

すべてを疑うか、すべてを信ずるかは、二つとも都合のよい解決法である、どちらでも我々は反省しないですむからである。

H・ポアンカレ『科学と仮説』(河野伊三郎訳)

ですから、「信用する」とか「信用しない」と簡単に言うのではなく、学問の「真理」なるものが一般的にどんなものとして存在しているのかを考えてみる必要があると思います。
というわけで、次回は学問における「真理」について考察します。

◎参考・引用文献
マイケル・ポランニー、高橋勇夫訳『暗黙知の次元』 ちくま学芸文庫、2003年
ピエール・ブルデュー、加藤晴久訳『科学の科学 コレージュ・ド・フランス最終講義』 藤原書店、2010年
ガレス・レン+ロードリ・レン、塚本浩司監修、多田桃子訳『サイエンス・ファクト 科学的根拠が信頼できない訳』 ニュートン・プレス、2023年
坂井克之『科学の現場』 河出書房新社、2015年
「インパクトファクター」「ウィキペディア 日本語版」 https://ja.wikipedia.org/wiki/インパクトファクター
アンリ・ポアンカレ、河野伊三郎訳『科学と仮説』 岩波文庫、1938年(1959年改版)
その他、多数のウェブサイトを参考にしました。

学問論:学問について(5) 学問における「真理」


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