学問論:学問について(1) 専「門」の内と外
「バカ学大全」に取り組み始めて、もうすぐ1年になります。
しかし1年前に私が抱いていた意気込みはどこへやら、研究成果の発表は最初の2ヶ月足らずで止まってしまい、後は「バカの表現集」でお茶を濁す……いや、お茶を濁しているつもりはないのですが、ともかく本論のほうを進めることができておりません。
「バカ学」をわがライフワークに、と心に決めてみたものの、その「ライフ」を維持するには飯を食わねばならず、必然的に日々の活計を何事にも優先せざるを得ません。やはり人の世はままならないものでございます。
しかし決して「バカ学」を諦めてしまったわけではありません。これを諦めていないということをわかっていただきたいがために、というか自分に言い聞かせるために「バカの表現集」だけは続けている、というところもあります。
今後の予定としては、「バカの言語学」を継続するつもりではありますが、ここまでの続きとして予定していた同義語や方言の考察はいったん後回しにして、語用論的な考察に取り組みたいと考えております。そしてこの考察を踏まえて「バカの心理学」に入っていきたいというのが現在のところのプランです。もちろんそのための準備を、時間が許す範囲で少しずつしております。
ところで、これまで「バカ学」の研究のために、慣れ親しんできたわけではない学術系のさまざまな文章に目を通してきたのですが、いろいろ読んでいるうちに、ソモソモ論として「学問」というものについてもしばしば考えることがありました。
学問は、ある意味では「バカ」の対極にあります。ですから学問について考えることは、一見したところ「バカ学」の研究とは最も関係ないことのように思われます。
しかしトンネルを掘るのに山の両側から穴を掘り進めるやり方があるように、「バカ」と対極の「学問」について考えを進めることで、バカ学の探究で近道になるようなことがあるのではないか――。
そんなことを考えまして、今回からしばらくの間、少ない資料でも考えられる範囲で、「学問」について考察してみようと思います。
「専門」の「門」をくぐる
「学問」と関係の深い言葉に、「専門」という言葉があります。学問的な知識のことを「専門知」と呼んだりします。
といっても、「専門」という言葉は「学問」より広い範囲に適用されます。仕事を持っている人は皆その仕事の専門家と見なすことができますし、考えようによってはすべての人間、いや、すべての生物は生きることの専門家だ、などとかっこよさげなことも言えたりします。しかしここでは、学問に話を限定しましょう。
「専門」という言葉には「門」という字が入っています。
この「門」は「門下生」「門弟」「同門」などという使い方もされます。いずれも徒弟制度や師弟関係が前提になっているようです。かつては学問や文芸、芸能などを学ぶためには、師匠の家の門をくぐらなければならなかった、ということかと思います。現代においては、お笑い芸人を目指す場合でも、学校や養成所などの教育機関の門をくぐります。師匠に弟子入りするのは、落語など伝統芸能の世界に限られているようです。
学問を学ぶ人は、たいていの場合、まず大学の門をくぐります。大学を卒業すると多くの人は学問から離れますが、学問を続ける人は大学院や研究機関の門をくぐります。
つまり専門家になろうとする人は、しかるべき場所の「門」をくぐって、その場所の中に入らなければなりません。そして実際に専門家になってからもほとんどの場合、やはり大学や研究機関などの門をくぐって研究を行います。
しかし専門家の中には、在野の研究者もいますし、研究機関を退職した人だって、知識を保っている限りは専門家と見なせます。ですから専門家は、物理的な意味で「門をくぐる」とは限りません。
とはいえ、学問というものをイメージとして「空間」「領域」「場所」と考えることは十分に可能です。実際、「専門領域」という言い方もあります。
学問には「内」と「外」がある
学問を「場所」としてイメージできる、ということは、その「内」と「外」がある、ということでもあります。
そして専門の「門」は、この「内」と「外」の境界線上にある、といえます。ある学問の専門家を目指すなら、その学問の「門」をくぐって中に入らなければなりません。つまり「入門する」ということです。実際、大学の初年度で使う教科書には「××入門」というタイトルの本がよくあると思います。
一方、その学問の専門家ではないし、専門家になろうと思ってもいない人を「門外漢」と呼びます。私のように何らかの学問研究に従事していない者は、どんな学問に対しても門外漢ですが、ある学問の専門家も他の学問に対しては門外漢です。
しかし門外漢は、その学問について何も知らないかというと、必ずしもそうではありません。学問にはまず門がありますし、窓らしきものもあるようなので、外からチラチラと中を覗き見ることができます。
いや、それどころではありません。学問という場所は、通信用のいろいろな回線が外とつながっていますし、出版社やテレビ局の人とか、サイエンスライター、学術系ジャーナリスト、××評論家を名乗る人たちなどが出入りしています。そういう人たち、あるいはメディアを通して、門外漢である私たちにも学問の内部のことがいろいろな形で伝わっています。専門家たちが中から積極的に情報発信していることも多いようです。
ですから、門外漢でも興味さえ感じれば、中のこと、つまりその学問に関する知識を手に入れることができます。
しかし興味に任せて中の知識を吸収してさえいれば、もはや門外漢でなく中の人、つまり専門家になっているといえるのかどうか。在野の研究者はまさにそういう人たちであると言えそうですが、はたしてほんとうにそう言っていいのか、門外漢でしかない私にはわかりようがありません。
「外」から「内」を覗いて見る
門外漢である私に見える範囲での「学問」という場所の内部を描写してみることにしましょう。
例として「生物学」という場所の内部を見てみます。
まず頭の中に、大学のキャンパスのような場所を思い浮かべてみます。
とても広い敷地内には巨大な校舎がいくつも建っています。ある校舎では分子生物学、ある校舎では植物学、ある校舎では動物学、ある校舎では生態学…、というふうに、生物学内の下位分類によって校舎が分かれています。そして1つ1つの校舎内ではフロアによって研究対象が分かれ(動物学の校舎なら昆虫学、魚類学、哺乳類学……)、1つのフロア内でまたさらに研究対象が細かく分かれているようです(哺乳類学なら犬、猫、馬、猿、ヒト……)。
そして各校舎内には様々な機具が設置されていて、研究者たちによって使用されています。
顕微鏡やシャーレのように、門外漢の私でも小学生のころに扱ったことがある道具もありますが、何に使うのか見当もつかないような大きな機械もたくさん動いています。パソコンなどの電子機器も大量に導入されていて、一見ゲームで遊んでいるように見えるのが実は生態系の変化をシミュレーションしているところだったりします。
また、数えきれないほどの動植物や化石が収められていたり、さらには世界中のジャングル、砂漠、海中などとつながっています。動物に注目して見た場合、自然環境に野放しにされてこっそり観察されている動物もいれば、解剖や生物実験に使われて亡くなる動物たちもいます。頭蓋骨を一部取り去って脳に直接電極を貼りつけられる、なんていうちょっと痛々しい光景も見られます。
そして、どの校舎でも生物学の発展に貢献した過去の生物学者たちが顕彰されています。ダーウィン、メンデル、ワトソンとクリック、ローレンツ…。名前だけでも聞いたことのある生物学者たちの肖像画がロビーの壁を飾っています。
もしかすると、かつては壁に肖像画がかかっていたのに外された、なんていう人物もいたのかもしれません。また、優生学のような黒歴史の記録もどこかの書庫に収められているはずです。
こんなキャンパスの中で、生物学の専門家たちはときに泥まみれになったり糞まみれになったりしながら、研究を日夜続けています――。
あと付け加えることというと、この生物学のキャンパスには、化学、農学、生理学、医学などのキャンパスも隣接していて、それぞれの間に通路がつながっています。また、ちょっと離れたところにあるキャンパスからも人がやってきて、進化論や生態学の理論モデルを借りていったり、動物の体の動きを再現するロボットの製作を手伝ってほしいと依頼したりします。
「内」と「外」のギャップ
生物学を例に、学問という領域のだいたいの様子を私なりに描き出してみました。しかしもしかすると、少々想像を広げすぎてしまったかもしれません。学問の世界を何をやっているのかさっぱりわからない、謎めいたところと考えている門外漢のほうが多いかもしれません。
学問に対する閉鎖的なイメージは、昔から「象牙の塔」と喩えられてきました。また、現在では学問の内容が複雑化し専門家たちの研究対象が細分化されて、隣の研究室で何をやっているかもよくわからないという状況がしばしば「タコツボ化」と形容されます。こういう形容は、内部にいる専門家たちの文章でもよく見かけます。
そんなイメージがあるとはいえ、私たちの生活とあまり関わらないような分野なら、専門家たちはせいぜい、一種のオタク扱いを受けるに留まるでしょう。
しかし政治・経済・環境・医療など、門外漢たちの日常に直接関わるような分野の学問だと、専門家たちはしばしば激しい不信感にさらされます。あの連中は政府や財界の偉い人たちとつるんで、パトロンの利害に適うことを客観的な「真理」と詐称しているのではないか……。そんな疑いをかけられることも多いと思います。アメリカではこういう一種の「陰謀論」が無視できないものになっているとも聞きます。
こんな問題が生じるのは、やはり学問が門の「内側」で実践されるものだからだといえます。
もちろんこれは当たり前の話です。しかし内側の立場(=専門家)と外側の立場(=門外漢)のギャップを少しでも埋めるためにはどうすればいいのか、と考えると、当たり前で済まされない、なかなか難しい問題のように思えます。
「バカ学」と関連づけて考えると、このギャップのせいで、学問がいくら発展しても門外漢たちは学問の恩恵に与れず、バカのままでいなければならないのだ、というふうにも考えられます。しかし実際のところどうなのでしょうか。
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先ほど、私は学問の「内側」を漠然とイメージとして描いてみましたが、次回はあちこちから助けを借りて、もう少し深く、この内部について描き出したいと思っています。