【Star Wars】 ドゥークー伯爵の映像作品が見たいという話 -日本の縮図として-

ものすごく今更ですが、私はテイルズ・オブ・ジェダイ(TotJ)ドゥークー編がとても好きです。ドゥークーは(私の理解では)レジェンズを含めてもそこまで小説で深掘りされているわけでもないし多分需要はないんだろうけど、アニメなりドラマなり、シリーズでしっかりパッケージして作品にして欲しい。特に日本的な視点から、ドゥークー(とクワイ=ガン、オビ=ワン)の物話というのはアナキンとかアソーカ、ルークとかの物語よりも切実に迫ってくると思うのです。そんな訳で、こんなストーリーが見たいというのを適当に書き連ねていくのであった。

なぜドゥークーなのか

ドゥークーを特に魅力的に感じる所以は、自分が所属する組織が硬直化し風向きが怪しくなっていく時代を生き、結局それに耐えられなかったところにあります。ドゥークーがオーダーに所属していたBBY70-40くらいでは、ジェダイオーダーの秩序自体はまだまだ健在で、でも決定的な変化は既に起きていて多分もう取り返しがつかない。彼はそれに気づくのだけれども、「秩序」が行き届いているが故にどうすることも出来ないのです。彼は多分クワイ=ガンやオビ=ワンよりも、オーダーにしっかりしていて欲しいと強く願っていた。それ故に外側への働きかけを絶えず行い、そのたびに失望する。こうして一歩一歩ダークサイドへと歩を進めてゆき、気づけばパルパティーンの捨て駒へ成り下がってしまいました。

そして、オビ=ワンのように器用に立ち回ることもできない。それはとても誠実だと思います。オビ=ワンのファンには申し訳ないですがep3以前のオビ=ワンというのは、ベースとなる善良さ・誠実さの元、都合よくジェダイコードを破ることができた人間だと思います。それはとても魅力的だし、本人が「善きジェダイ」であることを全く妨げないのだけれど、それにより周りの人間に決定的な影響を与えることはできない。更にいえば、そうした不徹底な逸脱者の存在は、大元のジェダイコードそのものの変革の必要性・切実さを毀損してしまう。やはりフィローニがマンダロリアンのメイキング(S1E2)で大演説したドライなオビ=ワン観は、私には説得力を持って聞こえます。もちろん、それゆえの悩み・葛藤がドラマを生むし、キャラクターとしての魅力に繋がるのも事実。「自分の頭で考えられるだけの(都合の良い)倫理観を持った人間」として、オビ=ワンは共感できる人物として確かな存在感を放つのです。

クワイ=ガンについても段落を設けなくてはいけませんが、正直彼について私はよく分かりません。確かなのは、彼はジェダイコードとは別に自らの格律を構築したということです。プリクエルでのオビ=ワンの思考はジェダイコードとの距離感・付き合い方に集約されるけれども、クワイ=ガンはそこにとどまらない。評議会の方針やジェダイコードに囚われずに自らフォースと向き合うからこそ、living force を重視し霊体になることが出来る。ここで仰々しく「格律」と書いたのは、私の考えではそれはカントよろしく定言命法だろうと思うからです。一方のドゥークーは現状認識と焦燥感が先にあり、周囲に警告を発し、共和国を「正す」事を優先したかった。要するに目的が先走って、一線を引く=定言命法で語ることが出来なかったのです。

そんな中でも、ドゥークーにとってクワイ=ガンは自分のジェダイとしての価値を、更には自分がジェダイである・あったことを何よりも保証する存在だったに違いありません。フォースライトニングを使おうが、サイフォ=ディアスを嵌めようが、自分はクワイ=ガンの師匠ではあり続ける。一方で評議会とは無関係に「ジェダイ」であり続けるクワイ=ガンは、自分がなり得たかもしれない自立したジェダイの姿に他ならない。自慢の弟子への尊敬・愛着・依存・負い目、全てが聖堂での別れ際(TOtJ4話)の目線に詰まっています(CGであれをやれるのは凄い)。またその自己愛と弟子への尊敬へのねじれが、「自分より賢」く、パダワンも持った成熟した弟子への「そばにいて守ってやれない」という発言につながるのかもしれません。

自分の歩みがどんどん深みにはまっていることを、彼は心のどこかでは自覚していたんじゃないかなと私は思います。だんだんその自覚にも慣れてしまい平気で分離主義同盟の長として振る舞うようになりますが、コルサントの軌道上でこれ以上無い形でその自覚・疑念が自分に降りかかってくる。アナキンにすがる目線には、そんな哀愁も含まれているように感じます。


さて、私は初めにドゥークーは日本的なキャラクターだと書きました。自分は1999年生まれなのでイメージでしかないけれど、この30年間、日本には何人のドゥークー伯爵が生まれたのだろうと考えちゃうんですよ。戦後整えてきたシステムが成熟を迎え、自走していく。一方で外部環境は徐々に変化していき、自走するシステムはそれにbest-fitしなくなっていく。その中で、例えば経済の停滞を議論して「失われた10年」と発話したときに、それが20年になる予感を持った人は多分大勢いたのだと思っています。それでいて社会の現状に対する認識はBBY40のままで(それは多分正しい)、今は反乱運動期とか、エンドア以後の非力な新共和国期とかだとは感じない。そうしているうちに、気づけば全部自由化して市場に任せようと言いつつ、自分の会社に良いように政商として活動する「腐敗した元老院議員」がのさばっていく。でも、彼だって本当は現状を変えようと行動しているだけで、ドゥークー伯爵と行動原理は同じかもしれない。ただ変化を怖がっている普通のジェダイと比べて、彼は本当に邪悪なのでしょうか。

彼 "は" 本当に邪悪だと思いますが笑

これは極端ですけど、程度の差こそあれ全国にドゥークー伯爵が散らばっていると私は考えています。自分の中に一線を引けず、クワイ=ガンになれなかったたくさんのドゥークー伯爵が。そして何かをきっかけとして"kill him"と言われている事に気づき、アナキンにすがるような目線をくべるドゥークー伯爵が。いずれにせよ、今の日本人にとってライトセーバーを捨てて父を救うための舞台は身近には感じられないように思いますし、アソーカのように混沌とした世界で組織から離れてジェダイの道を模索し続ける物語が広くフィットするにはもう少し時間がかかる気がしています。だからこそドゥークーの物語が、いま必要なんだと思います。

ここがその舞台だと思い切って言えないからダメなのかもしれないけど。私の考えでは、今の日本はようやくep3~BBY10くらいまで来たかなという感じです。

ドゥークー伯爵シリーズ案

見たいと言ったからには、エレメンタリーであってもTVシリーズの案でも書いておいた方が良いでしょう。ここからはまともな文章の形をしていませんが、よろしければ。随時加筆予定。

基本線はクワイガンを眺めながら着実に暗黒面へ歩を進めるドゥークー。エレベーターで別れるときに、もしくは聖堂の屋上で木を眺めるときに、回想シーンとして流れそうなエピソードにしたいです。

  • クワイ=ガンのパダワンが闇落ちする話をドゥークーに絡めて描く

    • ドゥークーが単線的に暗黒面へと転化していくのはつまらなそうなので、クワイ=ガンとともに独自路線ジェダイになりかけたところでパダワンが闇落ちしてドゥークーとクワイ=ガンの大方針が分かれていく的な。

  • 何かしら事件が起きて、ドゥークーは自分の方針への自信・確信を強め、クワイガンは自らを省みる。次に一歩暗黒面へと歩を進め、一方クワイガンは次のミッションを成し遂げる。

  • パダワン時代、ドゥークーの行いに一線を引き続けるクワイ=ガンをひたすら描く

  • 単純にクワイガンの成長に感嘆しrespectするドゥークー

  • パルパティーンに初めて会った後とか、セレノーの兄を殺した後とかにジェダイアーカイブかどこかでクワイ=ガンとばったり会って会話。

  • 秩序の中で「ライトセーバーを捨てて父を助ける」クワイ=ガン。彼は組織の中でその代償を支払う。ドゥークーはオーダーに見切りをつける(≒TotJ S1E3?)

    • メイス無能説から離れてこれをやりたい。メイス側にも明らかな非がなく、組織として目指す「善」が反映された描き方をしたい。「最善策」(from 進撃の巨人)に甘んじるメイス&それを飛び越えるクワイガンとか。("quai=gan with much imagination, the quality value less and less in this great halls")もちろんメイスじゃなくてもいい。

    • クワイ=ガンでそれをやるならTotJ S1E3でのドゥークーの反応と対比して



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