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太宰治のように生きろ

 この10日間――

 俺は面倒くささがマックスになって何もしていなかった。
 なんか『note頑張るぜ!』みたいなことを言っておきながらこの体たらく。
 ハッキリ言う――


 俺は死んだ方が良い!!



 でもやる気を継続できないからニートなのだ。仕方が無いのだ屑なのは。・・・・・・まぁ、文句は製造責任者に言ってくれ。
 
 まぁ、俺はである。
 100%混じりっけ無しのゴミクズだ。屑である原因を完全に親に押し付けているくらいだ。でも親がそう育てたのだから仕方ないよね。(循環論法)
 だから死んだ方が良くても、社会から居なくなった方が良くても、自殺なんかしてやらないもん。無意味に社会に迷惑をかけるつもりは毛頭ないが、迷惑を掛けなければ生きて行けないと言うのであれば存分に掛けて行くつもりである。ご了承願いたい。

 そんな俺だから太宰治が人間失格と言っても俺は納得できない。
 というのも人間失格という称号は俺のような屑にこそ相応しいから。
 つーか、客観的に見て、太宰治は普通に『人間合格』じゃないか? 小説を書いて、それを出版し、印税を得て、文壇でも一定の地位を得ていた人間が、自らを『人間失格』と称したところでさぁ・・・・・・

 ってならん?
 俺はなる。
 という訳で太宰治のアンチ記事を徒然なるままに以下に書いて行く。



 俺は太宰治はメンヘラだと思っている。
 メンヘラって厄介だ。メンヘラは自分の辛さを主張する。そんな大して辛くなくても他人からの関心が欲しいから大げさに言うものである。他者からの同情コレクターがメンヘラの正体だ。決してリストカットは見えない位置にはやらない。リストカットは見える位置にやるからこそ意味がある。リストカットしているという点を先ず相手に認知させてコミュニケーション時に自分に有利な状態を作り出そうという魂胆だ。半グレが金髪にしたりタトゥーを入れたりとベクトルが違うだけでやってることはまったく同じだ。だから辛いことは確かにそうなのだろうが、彼女らが言うほどにかは甚だ疑問だ。結局は心の痛みを誇大に言う病気だと俺は思う。

 そしてメンヘラが男性で、文才があった場合どうなるか?
 そう、“俺って可哀想小説”を書くのだ。具体的には太宰治の『人間失格』である。あの小説は世間を巻き込んだ盛大なリストカットに過ぎない。
 俺は決して太宰治の生育環境の悪さを否定しないが、キツさで言えば北大路魯山人の人生の方が10000000倍キツイ。母親の不貞から生まれ、父親は生まれる前に割腹自殺(DNAから言えば父親じゃないが)。その後、四回も保護者が変わるし、虐待だってされる。マジで地獄だ。犯罪者にならないだけでも偉業だと思うのに芸術家として大成するなんて信じられん。化け物か。
 ぶっちゃけ北大路魯山人が『親ガチャなんて無い!』と強弁してくるのであれば「そ、そうっすね・・・・・・」と阿諛追従しなければならないだろう。落合が「統一球は飛ぶ」と主張してくるのと同じだ。間違っててもその人間の持つ説得力で白を真っ黒にされてしまう。でも結局は魯山人の人格はイカレだから、やっぱ親ガチャって存在するよね・・・・・・としか思わないけど。
 
 そんな北大路魯山人と比べると、正直太宰治の生育環境って言うほどか・・・・・・?と俺は思う。俺は太宰治に同情する。でもそれは生育環境の辛さではなく、メンヘラであるというその一点に対して。
 それに、太宰治は何度も自殺企図を繰り返しているが、8回目でようやく成功だ。言っちゃあ悪いが、あまりにも自殺する才能に欠けている。多分世界の文豪中で一番の自殺失敗回数だろう。本当に死にたかったのキミ?
 やっぱりこう考えるのが妥当だ。死ぬ気なんてサラサラ無かった、と。自殺による結果ではなく“自殺という行為そのもの”こそを愛していた――そう考える方が自然ではないか?
 だから太宰治の『人間失格』を読んだところで“不幸の真髄”なんて分かるはずも無い。俺も20年前くらいに読んだが全然心に響かなかった。「はぁ、そうなんだ・・・・・・」っていう感じ。
 あの小説はメンヘラが不幸を気取って、不幸な読者が共感し同情してくれるように、その持てる文才を大いに駆使して書いた『嘘の小説』というのが本当の所だ。偽物なのだ、あの小説は。

 そして、だからこそ人気がある。


 偽物の人間であるVtuberが現代で滅茶苦茶人気があるのと同じだ。本物の異性なんて誰も見たくないのと同様、本物の不幸なんて誰も見たくないのだ。
 本当に不幸な人間が、その不幸ぶりを詳細に余すところなく書いてしまったら人気なんて出ない。不幸であるという事は、醜く、五月蠅く、そして不快な逆切れをしてくるものだ。お前ら幸福な人間には分かんねぇだろうなぁクソがっっ!!!――って感じ。
 不幸と言う事象に対して第三者であるからこそ、客観的に、耳ざわりよく、破綻せず、逆切れせず、名作として書けたのだ。
 大体、端書が『恥の多い生涯を送ってきました』だもん。



 ・・・・・・・・・・・・。


 “恥”つーのは人目に晒したくないからこそ恥なのであって、正面切って言える時点で恥じゃねぇだろッ!!!!!!!!!!!!!!!!


 あくまで生きて行くにあたって必要な行為だからこそ自殺を行い、そして失敗することを成功し続けてきたのが太宰治だ。
 太宰治の本質は生きたがりである。”自殺の失敗”を八回目に失敗してしまったのは、無理心中ガチ勢がネタと分からずつい殺してしまった・・・・・・と言うのが実際の所に違いない。

 そしてそのタイミングが良すぎた。そのせいで自殺する前に書かれた遺書的な小説だと間違われ今日まで至っている。別にそんなことは無いのに・・・・・・


 
 ――なんてな。
 まぁ、どうでもいい。100年前の小説家の執筆動機や死因なんて。
 今日という日には、日本だけで100人近く自殺しているのだ。彼らの人生は太宰治のファッションでは無く本物の不幸だ。そして本物の『人間失格』だ。
 でも残念なことに、自殺する奴はあんま長い文章を残さないし、作品に仕立てる気力も無い。だから太宰治なんかよりもよっぽど人間失格を書く資格があっても作品は殆どない。そこにあるのは余白だけだ
 いくら優れた読み手であっても、余白しかない小説は読めないだろう。
 だから自殺に至るまでの絶望を言語化なんてされないし、されても面白いとは思ってもらえない。
 だから結局は日本人は『人間失格』を読むしかない。我々弱者男性が本物の女性ではなくVtuberにガチ恋せざるを得ないように。

 つーか自殺なんかするなよ。どうせ死ぬときは死ぬんだしよ。最後のその日まで死ぬ気であがけよ、太宰治みたいによぉ。

 アイツのバイタリティの強さと、人様に迷惑をかけても別にいいや的な部分を少しは見習えやボケっ!!!!


 

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