生活だって共同制作だ。
今日、はっとした言葉です。
私は昔から人と共同で作業することがとても苦手で
たとえば自分が完全に駒として役割を与えられて集団の中で動く、ということはまだできるのですが
私の意思や希望が入ってくる内容だと、どうしてもうまくやれないことが多くて。
言われたことを断れないわりに、こだわりや執着があるからいつまでもそれを考えてしまって進めなかったり
自分が基準にしている良識というか、どうしてもこういうことは許せないみたいな、納得せずに行動を起こすことができないから相手と衝突してしまったり
だから、「この人となにかを作りたい」「この人とこういうことをしてみたい」という感情が貴重なので、できるだけそれを表して受け入れて貰えるなら一緒にやってみたいし、やってみるのだけど。
その場合って、私のほうは意思疎通して相手と折り合いをつけながらというか、重なりながらできあがっていってると思っているのだけど
それはとても勘違いで、大概相手が我慢したり譲ってくれたりしているんですよね。
つまり結局「一緒に作っている」というより「私の希望に合わせて相手が力を貸してくれている」という状態だったりする。
しかもありえないことに、相手から不満をぶつけられるまで、私は気づかなかったりする。
さすがに何度もやってしまっているので、いつも注意しているけれどね。
最近は共同制作とかの機会もないので、そもそも注意する必要がないんだけど。
一から十まで自分で完結しないと気が済まない場合もあるし
(完成が10だとして、8で完成にいたってなかったとしても、完成に辿り着くよりも誰かの手が入ってしまわない、自分で終わらせる完結を選んでしまう)
一緒の嗜好の人なんていないさ、一緒にやってくれる人なんていないさ、という腐りが先行することもある。
本当に人となにかすることが苦手だなあと思っていたのですが
(だから鍼灸師をしているところもある気がするのです。実際の施術する時の状態、お迎えから施術お見送りまで一人でできるところとか、営業についても自分の責任になるところとか。いつも責任の所在を気にしている部分があるな)
今日、題名の言葉をいただいて、そう言われてみれば、共有する時間があったり、生活があったりって、それはもう共同制作みたいなもんだなって。
そしてこの言葉から、制作って思うと、もう少しただの日々や生活を大切にしたり慈しんだりできるなって
考えなおしてるところです。
丁寧に注いだり向き合うと、自分自身の心も満たされる感触があるんだよね。
いつも常にこれを念頭に置きたいけれど。
なにしてるわけでもないのに、忙殺されがちだなって思いました。
眠くてなに書いてるのかわかんない。笑
意味があることを頑張ったり目指したりするんじゃなくて、
一つひとつ、それが身勝手でも、意味づけをしながら過ごしていけたらいいなって。ね。
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