おぎゃ〜!!
『鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。声あるものは幸いなり』という言葉がある。
これは明治時代の小説家 齋藤緑雨が遺した言葉であり、意味は
【人間も、言葉を持ち、意見を出し、鳥のようにさえずる声を上げることが出来る人はまだいい。
訴える知性とことば、知識、機会や用具・方法のある人はまだいい。
黙してされるがままの魚のような存在はどうしたものだろう。】というらしい。
最初にこの言葉の意味を知った時。真っ先にメンヘラな知人のことが頭に思い浮かんだ。
彼女は彼氏との恋愛状況によって不機嫌になったり上機嫌になったりと、テンションの差が大きい。悲しい時や不機嫌な時にはすぐに「はぁ、もう死のっかな……。」と言う。
彼女のそうした発言の度に周囲の人間は彼女に対して毎回慰めの言葉を投げかけており、私はその都度(あぁ……いつも軽はずみにそんなことを言って。本当に精神的に追い込まれた時に心配されなくなるぞ〜!!!)と思いつつ哀れんでいた。
私の関わった人達を観る限り、大半の人は「死にたい」(消えたい)欲求を持っているように思う。けれども、まともな人間とされるような人はそれを人前で口に出すことはしないらしい。
私も現実ではそういったことを口にしない人間である(そんなことを言う度胸が無いので)。
そのため、行き場の無い想いを日々電子の海に放流している。希死念慮を不法投棄している。
「死にたい」を軽々しく口にするメンヘラと「死にたい」などと思っていてもそれを口にしない私。
きっと周囲から(多分な意味でも)哀れまれているのは前者であり、後者を心配することはないだろう。や、そりゃ声に出さねば伝わるはずもないので当然のことではあるが。
私はこの周囲から哀れまれること(心配されること?)が必ずしも幸福だとは思っていないけれど、
周囲の人間が数年後に過去を振り返った時、真っ先に思い出すのは私ではなく彼女のようなメンヘラ人間だろうなと思う。
漫画『ONEPIECE』にて、Dr.ヒルルクというキャラクターが
と発言している。
彼の言う「死」とは、人の記憶から己の存在が消えた時のことを指しているのだ。
この発言を加味して改めて振り返ると、メンヘラ知人の「はぁ、もう死のっかな……。」は周囲の人間に自らの存在を焼き付けるための手段であり、不器用な彼女なりの生存戦略だったのではないか。「はぁ、もう死のっかな……。」は、(誰か慰めて!!)というSOSのみならず、他者の記憶に自らの存在を焼き付けるという一石二鳥の生存戦略なのだろう。このことから、メンヘラの「はぁ、もう死のっかな……。」の真意としては生を渇望していることが考えられる。
事実、何も主張をしない人間のことなど数年後には大半の人の記憶から消える。真っ先に死ぬような人は、ソレを口に出さない人間なのだ。
もしや、世間でよく言われている「死にたいと言っている人間ほどなかなか死なず、何も言わないやつ程唐突に死ぬ。」と言われているのはこうした記憶的な意味合いも含まれているのではないか。
こうしたことを考えていると、きっと「現実の私」よりも「ネット上の私」の方が長生きするのだろうなぁと感じる。
ネット上でしか鳴けない私を、どうか皆様が哀れんでくださいますように。
それでは、この辺で。