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『またね』


 最近、「またね」という言葉が気に入っている。
この言葉の使い所として、別れ際に今後も会うことを盲信している相手に告げる時が挙げられる。
「またね」は、「また今度」や「また明日」のように次に会う時期を指定していない部分が魅力的だと思う。
私としてはまたいつか会おうね。というニュアンスで使っているのだけれど、だいたいこれを告げる相手はネット上の友人だ。

 数多のSNSプラットフォームが存在している現代、ネット上で再び会えることは奇跡に等しいことだと思っている。場所によってはFF(フォロー・フォロワー)制度やフレンド制度などによって、ネット上での繋がりが具現化しつつある。それでも、ある日突然ブロックされることだってあるわけで。再び会うどころか二度と会う機会が無いかもしれないのだ。ネット上の関係性は脆く儚い。それは大半の人が理解していることだけど実際にそれを意識している人はごく僅かだと思っている。

人間は慣れる生き物だ。何度も会えばそれが当たり前に思ってしまうだろう。

 かくいう私もその一人であった。小学生の時、オンラインゲームを通じて仲良くなった子がいた。その子とは6年ほど交友が続いたが、ある日を境にオンラインにならなくなってしまった。何かの事故に巻き込まれたのかもしれないし、ゲームに飽きただけかもしれない。相手にどんな事情があれども、私には6年をかけて築いた関係が一日で霧散してしまった事実だけが残った。
どんなに仲の良い相手でも、SNSでは簡単に姿を消してしまう。
そんな思い出から、ネット上での再開は現実よりも運命的なもののように感じてしまうのだ。
(現実は人物を追跡しやすく、その気になれば大抵の人と再開出来ると考えているので。)


 私は人間関係を築くことが得意ではない。小中高大、そして就職と。新天地に移るたびに一から関係性を築くことが億劫でたまらなかった。
人付き合いによる損得勘定。コミュニティ内でのヒエラルキー。異性の友人との間に付き纏う下世話な噂話。
そのどれもが大嫌いだった。

 私は、馬が合えば性別容姿に関係なく誰とでもお友達になりたいし、他者の友好関係に対しては極力口を出したくないと考えている。
そんな私にとって、SNSは人間関係が築きやすい場所だった。
男性が女性に。女性が男性に。人間がキャラクターに。動物に。物に。好きな自分を演じることが出来て、性別や現実の立場なんて関係なくて。
存在なんてあって無いような場所であるため、有名人でもない限り周囲のユーザーに気にかけられるようなことは無い。
SNSでは人間関係を築く上で億劫なモノの多くが除去されているのだ。
反面、自身の発言についてしっかり向き合う必要があるのだけれど。他者への信憑性が限りなく無に等しい環境になるのだけれど。
その分他者に対するフットワークが軽くなる。
次から次へと興味の対象が移り変わりやすいので、他者から興味を持たれるような存在であり続けなければ長く関係を続けることは難しいのではないかと考えている。
相手の中で私への興味が失せた時、『またね』を最後に関係が終わることになるのだろうなぁ、と日々怯えている自分がいる。

それでも、再び交わる日が来ることを願って『またね』と告げる。


それでは、この辺で。

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