『この作品、おもんね〜!!!!』
近年、様々な分野でサブスクリプション制度が取り入れられていることを耳にするようになった。
それは物事に対して質よりもコスパを求める人が増えたからだと勝手に思っている。
様々な情報が簡単に手に入る現代、自身で情報の取捨選択をせざるを得なくなった現代では、己の知見を深めるために様々な知識を吸収することが難しくなったように思う。
情報の取捨選択をするために必要な情報もまた増えているからだ。
何言ってるか自分でもわからなくなってきたな。
ともあれ、このようになってくると単一の物事に多額の金銭を消費することは難しくなり、安価で多量の情報を得られるものの需要が高まることは必然である。
サブスクリプションの最たる例として、映像配信系のアプリが挙げられる。
(Hulu Netflix Amazonプライム U-NEXT 等…)
かくいう私もHuluとNetflixに加入している。
定額を払うことで一ヶ月間見放題という制度は、映像作品を頻繁に観る人間にはとても魅力的なものであり、多くの作品を観るほどお得になるため先に挙げた需要とも一致しているので皆様の周囲にも加入している方は存在しているのではないかと思われる。
これらのアプリには膨大な数のドラマ、映画、アニメ、番組が存在し、一ヶ月程度では全ての作品を網羅することは到底不可能である。
そのため、一ヶ月という限られた期間内で作品を選ぶ際には、本当に好みの作品なのか考えて選択する必要がある。(少なくとも私は)
作品を選ぶ際に私は作品のサムネイル、概要、ジャンル、作品のレビューをみてから臨んでいる。これによって多数の好みの作品に出会うことが出来た。
しかし、最近になってこの視聴の仕方に疑問を抱くようになった。
私の面白いという感性が他者の評価によって左右されているように感じてしまうのだ。
映画を観る→面白い
ではなく、
他者の肯定的な評価をみる→映画を観る→面白い(?)
になっているため、観賞後の感想が純度100%の私の感想ではなく他者がどのように評価しているのか前情報を得た状態での観賞となっている。これがどのような作用を起こすのかというと、私には微妙な演出だと感じても(う〜ん、でも他の人はこれが味のある演出だと思ってるんだよな…?なら、作品としてプラスに働いているのかな…。)と、なんでも無意識に肯定的に捉えてしまいがちになる。……少なくとも私は。
アニメでも映画でもドラマでも、作品が飽和している現代においてどの作品が自分に刺激を与えてくれるのか吟味する際に他者の評価が基準となってしまっていることはあまりよろしくないのではないかと最近考えている。
自覚のないままに洗脳されている感じ。
そのような考えを持ってからは観る映画や購入した小説は、サムネイル(表紙)やタイトルのみで選ぶようにしている。
そうすることで私が面白いと思う作品に当たる回数は極端に減った。その分好みの作品に出逢えた時の感動は大きくなったし、好みに会わなくても私は自信を持って『この作品、おもんね〜!!!!』と思えるようになった。
こうした純度100%の私の感性を大事にしていきたい。
Netflixにある『私だけに見える探偵』って韓国ドラマ、面白いのに私以外に見たことあるっていう人一人も見たことない😭😭
それでは、この辺で。