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「内向的であること」は対人コストが高いということなんじゃないかという話

こんにちは。かすらんです。

今回は「内向的である」とはどういうことかを書いていこうと思います。

私自身、自分が内向的であるということを中学生くらいの時から自覚しており、当時からそのことについて考え続けてきたので今回はその考えの一部を紹介できたらなーと思っています。

早速本題に入りたいと思います!


内向的である=対人コストが高い

題名にも書いてある通り、内向的であるということは対人コストが高いということなのでないでしょうか。

もう少し具体的に説明していきます。

例えば、誰か友達や知り合いに話しかけたり遊びに誘う際に、外交的な人であればそこまで精神的な負荷を負わずにパッとその場で誘えたりします。

ただ、その一方で内向的な人というのは、なにかそのような対人アクションを起こす際に、精神的な負荷(=コスト)が外交的な人よりも多くかかるものなのだと思います。

それは知り合いや友達の場合だけではなく、初対面の人に関しても同様に言えることだと思います。

内向的な人の中には初対面の人に対しては全く気にせず話ができるという人もいますが、その場合はその人にとって初対面での対人コストが低いが故に特に気にせず話せるということなのではないでしょうか。

対人コストが高いとはどういうこと?

対人コストが高いとは一体どういうことなのかもう少し掘り下げていきましょう。

対人コストが高いというのは、その人に何かアクションを起こす際に憂慮すべき事柄が多いということである、と言えます。

どういうことか?

つまり、
「あの人に誘ってみたけど、断られるかもしれない、、」
「私は覚えているけど、相手は忘れているかも、、」
「笑ってくれなかったらどうしよう、」

といったような思いを多く抱えてしまうということなのではないでしょうか。

言い換えると、繊細な感情を持っており多くの事を考慮に入れて考えざるを得ない性格、みたいな感じ。

逆に言ってしまえば、特に対人コストを感じることなく人と接することができる人はいい意味で鈍感であるともいえる気がします。

私の場合、外交的な人の振る舞いを見ていると、「よくもまあそんなにすぐ人の懐に潜り込めるなー」とか、「あんた出会ってまだ2週間くらいなのにもう方組んできてるけど距離近くない?」みたいに思ってしまいますが、それは内向的な人間のみが持ちうる感情なのかもしれません。

おわりに

人間の内向性についてはほかにもまだまだいろいろと考えるべきことはあると思いますが、今回は対人コストという観点から内向性について話しました。

今後も内向性や人間の性質についても日常で思ったことをnoteにつづっていけたらと思っています。

ここまで読んでいただきありがとうございました!
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※(スキもフォローもどっちもしてもらおうとするなんておこがましいと思ってしまうので"or"にしました。こういう風に考えてしまうのも内向性故のことかもしれないですね。又吉直樹の「第2図書係補佐」とかと共通した何かを感じてしまいます。)

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