落語評論・座布団一枚の上の小宇宙

昔、タワーレコードのフリーペーパーに書いた原稿です。

 座布団一枚の上で繰り広げられる小宇宙。小道具は基本的に手拭いと扇子だけだ。しかし扇子は蕎麦をたぐる箸になり、代書屋が手紙をしたためる筆になり、あるいは武将が携える槍や刀といった武器、さらには船頭が漕ぐ船の櫂にもなる。手拭いも、間抜けな泥棒の頬かむりから、ケチで小言ばかり言っている大旦那の台帳、おかみさんが間男に渡す紙入れ、ご隠居の煙草入れと、様々なものに形を変える。背景に余計なものはなく、演目のめくりが高座の脇に置かれているだけ。渋い柄の着物をこざっぱりと着た噺家は、その簡潔な身なりからは想像もできないほど万能だ。すべての登場人物であり、物語を俯瞰する監督や脚本家であり、時にはその作者でさえあるのだから。
 一枚の座布団に座ったまま、声と簡潔な仕草だけで演じられる物語に、僕は市井の人々の生活の一コマから、時には合戦や地獄風景といった大スペクタクルの光景までをまざまざと見る。そして登場人物たちの感情を経験する。視覚的に余計なものを排する事で、その物語は肌の感覚として残って行く。ハリウッドの大作映画が趣向を凝らし、ひたすら視覚と聴覚を刺激するのとはまるで裏腹な世界だ。でもどちらがより生々しい記憶として残って行くかと考えると、僕は落語の方に軍配をあげる。映画は、映画を見た、という経験として記憶に残るが、落語は噺の中の空気感を肌で覚えてしまう。
 そして、笑い、だ。馬鹿馬鹿しく可笑しい話は勿論だが、涙を誘う人情噺の中にも、フッと緊張をほぐすような、笑い、が隠されている。その中に人肌の温もりを感じる。デフォルメされ面白可笑しく語られる登場人物たちなのに、ふと自分でも逢った事があるような懐かしさを感じてしまう。
 噺家はほんの少し声の調子を変え老若男女を演じ分け、右を見て左を見るだけで、別の人物になってしまう。さらには人間以外の動物や、あるいはこの世のものではない幽霊や怪物にまで姿を変えることができる。多分こんな形の芸は世界中のどこにもないだろう。
 噺家自身があまりに芸にでてしまうと、噺自体は浅くなってしまう。それはスタンドアップ・コメディやコントの世界に近い。かといって全く噺家自身を感じさせないものも魅力が乏しい。その辺の頃合いが面白い。落語の世界では噺自体の面白さと同時に噺家自身の個性が重要だ。同じ噺を何度聞いても飽きないのはそこに味わい深いものがあるからだ。同じ噺を別の噺家で、とか、同じ人の別の高座で、などと考え始めると、それはもう落語の魅力の蟻地獄に片足を突っ込んだ事になっているのだ。
 こんな言い方はどうだろう?噺家は映写機のレンズのようなものかも知れない。その身体を通して観客に様々な物語を投影するレンズだ。ただそのレンズにはそれ自体の色や歪みを持っていて、観客は投影される物語と同時に、そのレンズの持つ風合いも楽しんでいるのだ。
 子供の頃テレビの演芸番組が好きだった。どちらかと言うと色物の音曲物が僕の好みだった。なんとかトリオといったグループのチューニングのあまいギターと三味線が奏でる不協和音が僕には心地良かった。そのついで、といっては何だが落語にも興味を持つようになった。土曜日の午後などは寄席からの中継番組をやっていて、それを次々と見たりした。学生の頃僕の趣味を知っている落研の友人に頼まれて下手な発表会にも行ったものだ。僕は関西出身だが、上方落語にはよく裏から囃子方が噺に彩りを添える場面がある。大旦那が芸者を連れて遊山に行くシーンなどでそういう趣向が用意されているのだが、元々音曲物の好きな僕は、その華やかな雰囲気が好きだった。そう言った噺から入門した形で、さらに簡潔な江戸落語の世界にも興味を持つようになった。大人になって東京に出て来てからは、主にラジオで落語を楽しんだ。NHKの「真打ち競演」とTBSの「ラジオ寄席」は愛聴番組だ。そしてその内、寄席やホール落語にも時々は足を運ぶようになった。
 志ん朝、馬生、の兄弟、それから文治が大人になってからの僕の好みの噺家だ。
 志ん朝、馬生のふたりは兄弟でありながら、芸風はかなり違っている。弟志ん朝に比べ兄の馬生は地味だと言われているが、その味わいは甲乙つけがたいものがある。馬生の高座に上がった姿はいつも時間が止まってしまったような静謐さを漂わせていた。その中でゆっくりと滑るように少し高めの声で噺を始めると、もう場内全体が江戸の下町の空気になっていた。馬生の「笠碁」は大好きな演目だった。「二番煎じ」では途中見事な都々逸も披露してくれた。兄弟の中でより父親志ん生の雰囲気を強くもっていたのは馬生の方だと思う。
 志ん朝は何よりも華やかでテンポのいい語り口が素晴らしかった。姿、声、立ち居振る舞い、すべてで粋、鯔背、という言葉を体現していた人だ。志ん朝もすべて名演ばかりだが、僕は生の高座で拝見した「品川心中」が今でもまざまざと心に蘇る。それに「火焔太鼓」のテンポの良さも。兄弟二人に共通するのは噺に気品があることだ。絶対に崩れる事のない気品が・・。
 文治も独特の間合いと可笑しさが魅力だ。一時期追っかけのように彼の高座を廻った事がある。一門会を予約しようと電話をしたら師匠ご自身が出てこられて驚いた事もあった。「替り目」や「源平盛衰記」楽しませてもらっている。いつまでもお元気で活躍して頂きたい。
 もう一人、僕の絶対のアイドルは三味線の弾き語りで都々逸や新内を聞かせてくれる、柳家紫朝だ。少し頼りなさそうなそれでいて強靭な演奏は、空中に見事な一本の線を描き、時間の流れを確実にゆっくりとしたものに変えてしまう。それはある意味、音で表現することの極致だと思う。
 僕自身はボサ・ノヴァというブラジルの音楽を演奏している。でもお手本にしているのはこういった人たちの芸だ。唐突に聞こえるかも知れないが空気感や時間の流れを変える、その方法は驚くほど似通っているのだ。


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