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鎌倉時代
昔の日本で武家が活躍する時代を作ったのがこの時代からです。鎌倉時代(1185年または1192年〜1333年)は、日本の歴史の中で、武士が政治の中心となった最初の時代です。源頼朝が鎌倉幕府を開き、以後約150年間、武士による支配が続きました。徳川慶喜が大政奉還するまでの日本はどの様な時代だったのか?
主な特徴
1. 武士政権の確立
• 1185年:壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、源頼朝が全国支配を進める
• 1192年:源頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を正式に成立させる
2. 執権政治と北条氏の台頭
• 頼朝の死後、北条氏が実権を握り、執権政治(将軍を補佐し実質的に統治)を開始
• 1221年:承久の乱(後鳥羽上皇が幕府打倒を図るが失敗)、幕府の権力が確立
3. 元寇(蒙古襲来)
• 1274年(文永の役)、1281年(弘安の役)にモンゴル帝国(元)が襲来
• 日本側は撃退したが、財政的負担が増し、御家人の不満が高まる
4. 鎌倉幕府の滅亡
• 1331年:後醍醐天皇が討幕を決意(元弘の乱)
• 1333年:新田義貞の攻撃により鎌倉幕府が滅亡
文化
• 武士の精神:「武士道」の原型が形成
• 建築:禅宗様式の寺院が広まる(円覚寺など)
• 文学:「平家物語」や「方丈記」、和歌の「新古今和歌集」
鎌倉時代は、武士が日本の政治を主導し始めた画期的な時代であり、その後の室町時代や戦国時代の基盤となりました。
鎌倉時代には、武士・僧侶・歌人・作家など、さまざまな分野で活躍した人物がいます。以下、特に有名な人物を紹介します。
1. 政治・武士
• 源頼朝(みなもとのよりとも)(1147-1199)
• 鎌倉幕府を開いた初代将軍。武士による政権を確立し、日本史に大きな影響を与えた。
• 北条政子(ほうじょうまさこ)(1157-1225)
• 頼朝の妻で「尼将軍」と呼ばれた。承久の乱(1221年)では幕府側を鼓舞し、勝利へ導いた。
• 北条泰時(ほうじょうやすとき)(1183-1242)
• 鎌倉幕府の三代執権。「御成敗式目(貞永式目)」を制定し、武士の法律を整備。
• 新田義貞(にったよしさだ)(1301?-1338)
• 鎌倉幕府を倒した武将。1333年に鎌倉を攻め落とし、幕府を滅亡させた。
2. 仏教・思想
• 法然(ほうねん)(1133-1212)
• 浄土宗の開祖。「南無阿弥陀仏」を唱えることで極楽往生できると説き、庶民に広まる。
• 親鸞(しんらん)(1173-1263)
• 浄土真宗の開祖。法然の弟子で、「悪人正機説」を唱え、すべての人が救われると説いた。
• 栄西(えいさい)(1141-1215)
• 臨済宗(禅宗)の開祖。宋から禅の教えとともに茶の栽培方法を伝え、日本の茶文化の基礎を作る。
• 道元(どうげん)(1200-1253)
• 曹洞宗の開祖。「只管打坐(しかんたざ)」という座禅を重視する教えを説く。
• 日蓮(にちれん)(1222-1282)
• 日蓮宗(法華宗)の開祖。「南無妙法蓮華経」を唱えることで救われると説き、迫害を受けながらも布教を続けた。
3. 文学・芸術
• 鴨長明(かものちょうめい)(1155?-1216)
• 『方丈記』の作者。平安末期の混乱や無常観を綴った随筆文学の代表作。
• 吉田兼好(よしだけんこう)(1283?-1352?)
• 『徒然草』の作者。鎌倉時代末期の随筆で、のちに日本文学に大きな影響を与えた。
• 藤原定家(ふじわらのさだいえ)(1162-1241)
• 『新古今和歌集』の編纂者であり、和歌の名手。「小倉百人一首」を選定したことでも知られる。
• 兼好法師(けんこうほうし)(生没年不詳)
• 『徒然草』の作者とされる人物。鎌倉時代の世相や人生観を記した随筆の名作。
• 無住道暁(むじゅうどうぎょう)(1226-1312)
• 『沙石集』の作者。仏教説話を集め、庶民に分かりやすく仏の教えを広めた。
鎌倉時代は武士が活躍した時代であると同時に、仏教が大きく発展し、文学や芸術も花開いた時代でした。
源頼朝には「影武者説」がいくつかありますが、特に有名なのは 「頼朝は実は平家の落ち武者と入れ替わっていた」 という説です。この説は江戸時代以降に広まりましたが、史実としては証拠が乏しく、あくまで伝説やフィクションの域を出ません。
主な影武者説
① 平家の武将が頼朝と入れ替わった説
• 平治の乱(1159年)で敗れた頼朝は、伊豆に流されるが、そこで平家の落ち武者と入れ替わったとする説。
• 実際の頼朝は殺され、替え玉が頼朝として源氏を率いたという話。
• ただし、頼朝の出自や幼少期を示す記録が残っているため、信憑性は低い。
② 影武者が何人もいた説
• 頼朝は戦場にほとんど出ず、影武者を使っていたという説。
• 特に「富士川の戦い」や「壇ノ浦の戦い」で、影武者が活躍したとされる。
• しかし、これは戦国時代の影武者戦略を後世の人が頼朝にも当てはめた可能性が高い。
③ 頼朝の死後、替え玉がいた説
• 1199年に頼朝が落馬で死亡した際、実は影武者がいたのではないかという説。
• 北条氏が影武者を使って幕府の統治を続けようとしたという話だが、史料には証拠がない。
結論
源頼朝の影武者説は、江戸時代の軍記物やフィクションの影響が大きく、歴史的な証拠はほとんどありません。ただし、戦国時代のように影武者を使う戦略が後に発達したことを考えると、「頼朝にも影武者がいたのでは?」と想像された可能性があります。
また、頼朝が自ら戦場に出ることが少なく、政務を重視していたため、「実は影武者がいたのでは?」という憶測が生まれたのかもしれません。