『凸凹息子の父になる』35 虹の彼方から
春休みも終わりに近づいた日のことだった。もうすぐ、翔太は二年生になる。
「今年も、安東先生が担任になって欲しいなぁ」
そう思った矢先だった。
突然、電話が鳴り妻が出る。
「もしもし、星です。えっ?は、はい」
何となく声のトーンが、重いのが気になる。と思ったら、次の瞬間、妻が叫んだ。
「ええっ? そんな、どうして?」
何か、ただならないことが起きたのだろうか?電話が終わると、彼女は座り込んでしまった。
「どうした?何があった?」
「先生が…、あのね、安東先生がね…」
そう言うと、妻は泣き出した。
電話は、翔太のクラスの役員さんからだった。
「安東先生が…、バイクで…」
また妻は泣き出す。
「バイクが、どうした?」
「事故に…巻き込まれたって…」
「事故?それで?怪我は?酷いのか?」
妻は、さらに子どものように泣いた。
「泣いてちゃ、分からないじゃないか。えっ?どうしたんだ?」
「亡くなった…」
「えっ?聞こえない。なんて言った?もう一度言って?」
「先生、亡くなられたって」
妻は、何を言っているのだろう。
「ごめん、言っていることが、よく分からない。もう一度聞いてもいい?」
「安東先生がね、バイクの事故で亡くなられたの」
「安東先生って、どの安東先生?」
「1年1組の、翔太の担任の安東先生」
「本当に安東先生なのか?聞き間違いだろう」
「私も、何回も聞き直したよぅ」
「じゃぁ、嘘だ。嘘だよな。ねえ、嘘なんだろう?頼むから、お願いだから、嘘だって言ってくれよ」
妻は泣きながら、半ば怒ったように言った。
「私だって…、私だって、嘘だって言いたいよ。でも…、でも…、嘘じゃないの…。本当なの」
頭が、現実を受け止めきれない。
「先生、一体どういうことだよ。ついこの間、一緒に桜を観たばかりじゃないか。これからも一生、翔太の面倒を見てくれるって約束したじゃないか。
約束が、違うよ。バイクになんかに乗るなよ。何でだよ。死ぬなよ」
猛烈な怒りが込み上げて来る。腹が立って、腹が立って仕方がない。
この怒りを、この感情をどうすればいいのだろう。
連絡を受けた次の日が、通夜だった。
妻と子供たちは先に家を出た。私はなんとか授業を早めに切り上げると、急いで着替えて斎場に車を走らせる。
その日は雨だったが、まるで空が泣いているように思えた。
斎場の前を通ると、中に入りきれずに外で傘を差したまま参列している人たちが見える。
斎場の駐車場に車は、停められそうにない。私は近くの駐車場に車を停め、そこから傘を差して斎場まで歩いた。
「こんなに沢山の人を集めて悲しませるなんて。酷いよ、先生。本当に、酷いよ」
斎場に着いたが中に入れなかったので、外で坊さんの読経を聞いていた。
そのうち列が進んで中に入った時には、和服姿の先生の奥さんが静かな声で挨拶をしていた。
奥さんは視線を落としたまま感情を押し殺し、なんとか役目を務めようとしていた。その震える横顔が、痛々しかった。
我々でさえこんなに辛いのに、ご家族の辛さはどれほどだろう。
お通夜には、学校関係者や父兄、在校生や同窓生など沢山の人たちが集まっている。
大多数の人は帰らずに残り、あちこちですすり泣く声がしていた。その中に妻と子供たちを見つけ、家族揃って棺に眠る先生にお別れをしに行った。
安東先生は、眠っている様にしか見えない。その顔を見ると、妻と娘たちは堪らずに泣き崩れてしまった。
今まで私は、こんなに辛くて悲しくて、苦しくて悔しい別れを経験したことはない。親父やお袋が亡くなった時でさえ、別れは寂しかったが辛くはなかった。
先生の足元には、愛用のギターが納められている。いつも子供たちに弾き語りをして聞かせてくれていたギターだ。
翔太は涙も見せず黙ったまま、じっと先生の顔を見ている。
妻たちは泣きっぱなしで歩くのもやっとの様子だったが、次の人たちに場所を譲るために棺から離れた。
帰宅してからも、今日の光景が目に焼きついて離れない。
食事をしても味がしない。テレビを点けても内容が頭に入ってこない。風呂に入っても、ぐるぐるといろんな思いが駆け巡る。
「何故だろう。何故なんだろう」
何故、ガンで死に掛けた私が生きていて、私より若くて素晴らしい先生が死ななければいけなかったのだろう。
先生と出会って楽しかった日々のことを思い出した。しかし思い出が美しければ美しいほど、先生がいないという現実が苦しかった。
「こんなに苦しい思いをするなら、先生に出会わなければ良かった」
心の中にどうしようもない喪失感を抱えて、呼吸をすることさえ苦しい。それほど安藤先生の存在は、私にとって大きかった。
風呂から上がると、先に入浴を済ませた妻がソファに座り、足にクリームをぬりながら泣いている。
「どうした?」
「今日ね、出掛ける時からパンプスを右左逆に履いてて、ずっと気づかず一日そのまま過ごしていたの。よっぽど気が動転してたみたい。足が痛いことさえ気がつかないくらい、心が痛くて苦しくて…」
見ると、妻の足の指先がうっすらと赤くなっていた。先生の死の衝撃は、私たちにとっては大き過ぎた。
先生は私たちの心を奪ったまま、いなくなってしまった。このやりきれない気持ちを、どう克服すればいいのだろう。
次の日の明け方、目が覚めた。悪い夢でも見ていたのだろうか。寝汗をかいていた。
「昨日のことは全部夢だったのだろうか。頼むから夢であってくれ」
そう願いながら起き上がると、ハンガーに掛けられた私と妻の礼服が目に入った。
夢ではなかった。やっぱり安東先生は、死んでしまったのだ。
私は自分の心の内を整理するために、パソコンに向かった。せめて弔電でも打とう。
先生への思い、感謝の気持ちを何らかの形に表したかったが、こんな形で表現しなければならないことが悔しかった。
そのうちに家族が起きてきた。朝食を済ませると、娘たちは折り紙で鶴を折った。先生の棺に納めるそうだ。
翔太は昨日の夜から空き箱で、メガネと信号機を作っていた。メガネには透明のアクリルシートで作ったレンズが入り、レンズはブルーの油性マジックで丁寧に塗られていた。
信号機には、メッセージが添えられている。
「あどせせ ありがと しようた」
子供たちの作業が済み、私たちは身支度を整え告別式へと向かう。
斎場に着くと、昨日とほぼ同じ顔ぶれの人たちが集まっていた。お互いに軽く会釈したが、目を合わせるだけで悲しみが込み上げて来る。
特に校長先生と教頭先生の憔悴しきった姿に、言葉をかける術もなかった。
たった一日しか経っていないが、昨日のことがまるで遠い昔のことの様に感じられる。
会場に入ると、小学校の役員の父兄が子供たちを前の方の席に集めて座らせた。
式では色んな人が、先生との思い出を語った。一人ひとりの話を聞くにつれ、安東先生の多彩な面が明らかになり、いかに多くの人に慕われていたかが伝わるとともに、その先生がいなくなったことに悔しさが募る。
窪田先生も話した。
「隼人先生、先生とは何でも話せる仲でしたね。でもまさか、こんなことになるなんて」
先生は声をつまらせ、拳で涙を拭う。そして振り絞るように言った。
「隼人先生、これから先生の分まで頑張るけんね。先生も助けてな」
最後に話したのは、校長先生だった。
「安東先生の訃報を聞いたとき、嘘じゃないかと思いました。本当に嘘であって欲しいと、心から願いました。今ここに寝かされている先生にお会いしても、どうしてと言う思いしか湧いてきません」
校長先生は、しばらく言葉につまって黙っていた。そして、思い出すように話された。
「安東先生との思い出は、在りすぎて頭の中がまとまりませんが、絶えず子どもたちの心に寄り添っていたことが印象的です。どれだけの子どもたちが、彼に救われたことでしょう」
校長先生が席に戻られる時に、私と目が合った。先生の目は、悲しみに満ちていた。
式の終わりには、去年の文化祭の時の映像が流れた。安東先生と窪田先生が楽しそうにギターを弾き、自分たちで作った歌を子供たちと一緒に歌っている。
先ほどの父兄が、子供たちにその場で立つように促し、映像に合わせて歌わせた。
子供たちは、歌いながら泣いていた。ついこの前までこんな日が来るなんて思ってもみなかっただろう。
画面の中では笑顔で歌っている子供たちが、今は泣きじゃくっている。歌うことさえ出来なくなっている子が、何人もいる。
子どもたちの澄んだ歌声は、会場全体に響いた。安東先生は、一体どんな気持ちで聴いているのだろう。
その後、司会者が弔電を読み上げた。安東先生は幅広く色んな活動をしていたようで、心のこもったエピソードが沢山寄せられていた。
私の拙い文章も読まれた。私は父兄の気持ちを代弁するつもりで感謝の思いを書いたが、横にいた男性が二度ほど頷いてくれた。
最後にみんなで先生にお別れをした。子供たちは色とりどりの折り鶴を棺の中に供え、大人たちもそれぞれ花を一輪ずつ手向ける。
たくさんの折り鶴と花々に囲まれ、先生は少し笑っているようにも見えた。
息子は新しく作ったメガネと信号機を枕元に置いた。
棺を取り囲んだ私たちは、これが安東先生と目に見える形では最後の別れになってしまうと思うと、堪らなかった。
やがて出棺の時となり、数人の男性に混じって私も先生の棺を担ぎ、霊柩車にお乗せした。
重たかった。今まで担いだ何よりも重たかった。先生の重みが私の身体に伝わり、実際の重み以上に感じられて悲しかった。
全員が外に出て車を見守る中、先生のお父さんが挨拶をされる。
「昨日、今日と沢山の方々にお集まりいただき、また美しいお花や温かいお心遣いを賜り、心から感謝を申し上げます」
参列している皆が、頭を下げた。
「親の私が言うのもなんですが、自慢の息子でした。本当に思いやりのある人間でした。息子のためにこんなにも多くの方が集まって下さったことに、私たちも驚いております。改めて息子がいろんな方々に支えられ、また慕われていたことを知りました」
話は続いた。
「息子が私を差し置いて、先にあの世に行ってしまったことは納得していません」
お父さんは顔を上げ、前を向いた。
「でも残りの人生、息子に胸を張って会える日が来るまで一生懸命に生きて行こうと思います。きっと姿は見えなくなっても、今までと同じ様に私たち家族を支えてくれると信じています」
言葉の一つ一つが、心に沁みた。
「どうか、息子のことを忘れずにいてやって下さい」
お父さんは、深々とお辞儀をされた。
先生と知り合った期間は一年しかなかったが、短い間に私たちが受けた影響は大きかった。
翔太は安藤先生に出会ってから見違えるほど成長し、私自身も教えられることが多かった。
そんな先生に励まされ勇気づけられた親子は、私たち以外にもたくさん居ただろう。
安東先生の人生は短かったが、人の何倍も濃い人生だった。
先生のご家族が車に乗って、ドアが閉められた。長いクラクションが鳴り、ゆっくりと車が動き出すと小雨が降り出した。
あちこちで泣き声が聞こえた。大人も子供も、まっすぐ立っていられないほど悲しんだ。身をよじり、身を屈めながら泣いていた。
私は傘も差さずに濡れたまま、先生のお見送りをした。頭を下げた私の目から流れた涙が、雨と混じって頬を伝って行く。
雨がこの悲しみを洗い流してくれるのなら、どんなにいいだろう。
しばらくすると妻が傘を差してくれて、我に帰った。
「帰ろうか」
私たちは、自分たちの車を停めた駐車場まで歩き出す。
歩いているうちに雨がやみ、日が差してきた。傘をたたみ、歩いていると長女が叫んだ。
「見て、虹が出てる」
立ち止まって長女が指差す方を眺めると、そこには大きな虹がかかっていた。それは、あまりにも見事な虹だった。
しばらく私たちは立ち止まり、吸い込まれるように虹を眺めた。
「ねえ、安東先生、あの虹を上ってお空に行ったんじゃない」
娘が言った。
「そうだな。そうかもな」
翔太が、虹に向かって手を振っている。何だか向こう側から、先生が笑いかけてくれる様な気がした。
虹が消えてしまうと、私たちはまた歩き出す。息子と手を繋いで歩いていると、安東先生のとびきりの笑顔が思い出され、心の中の雲霧が少しずつ晴れて行く。
心に空いた大きな穴は、塞がるのに時間がかかるだろう。でも安東先生に出会えたという事実、その事実は決して消えない。
坂本龍馬を育てた勝海舟を目指していた先生は、約束してくれた。
「私は、翔太君の勝海舟になりますよ。一生面倒を見ますよ」と。
そうだ。安東先生は、死んでなんかいない。私たちの中で生きている。翔太の成長の一つ一つにも、先生は生きている。
だから先生への感謝を胸に、私は子供たちと一緒に成長して行こう。
雨に濡れた街路樹が光り、そよ風が春の香りを運んで来る。軟かい光が射して、雨上がりの歩道には家族五人の影が斜めに現れた。
子供たちはお互いの影を踏んで、遊びはじめる。背後から温かい光に照らされて、何かに包まれているような、背中を押されているような感じがした。
「この夏は、先生が好きだった龍馬さんの桂浜に行こうか」
「それは、いいね」
「行こう、行こう」
楽しかった日々を、美しい思い出を纏いながら、また私たちの物語が始まっていく。